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勝たんば。<br>長崎北[長崎]
過去に8回の花園出場がある。2008年度の出場が最後。近年の全国大会出場は、実行委員会推薦枠で出た2022年の選抜大会。(撮影/松本かおり)

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◆ライバルに勝った!


 駐輪場がない。
 坂道の多い長崎の学校では、珍しいことではないらしい。
 ラグビーをしている子どもたちがあちこちの学校にいる。
 以前よりは減ったけれど、こちらも長崎では珍しくない。
 ラグビースクールの活動が盛んで、高校のラグビー部が競い合っている。三菱重工長崎は、かつて社会人ラグビーの強豪だった。

 そんな長崎のラグビー界で風が吹いた。1月26日、県の高校新人大会でキタコーが優勝したのだ。
 その日、佐世保市の東部スポーツ広場でおこなわれた決勝戦で長崎北高校は2トライで10得点。花園常連の長崎北陽台高校を8点に抑えて歓喜の時を迎えた。

 その試合、前半4分にPGで先制したのは北陽台だった。同22分にはスクラムから攻め、ゴールポスト下にトライを決める。5点を追加してリードを広げた。

 キタコーはそこから逆転した。
 後半2分、ラインアウトからFWで少しずつ前進して、最後まで取り切った。LO岩﨑健太朗がトライラインを越えた。
 同24分にはボールを動かす。14番の道端幹大(かんた)が左サイドのスペースを巧みなフットワークを使って走り、トライ。10-8のスコアで勝った。
 10年ぶり12回目の優勝だった。

 決勝のトライを決めた道端は長崎ラグビースクールの卒業生で全国大会も経験している。しかしバスケットボール愛好家で、同スクールには中2時に加わった。スピードと独特の動きを武器にしている。
 自分の活躍を内側の選手のお陰とし、「いつも一人抜けばトライとなる状況を作ってくれる」と話す。そんな言葉からも、今年のチームの連係の良さとスキルの高さが伝わってくる。

 長崎北高校は市の北部の高台、岩屋山に近い小江原(こえばる)地区にある。1964年創立の進学校。2024年春の進学実績は、227人の卒業生のうち137人が国公立大学の合格者となっている。

学校の創立は1964年。市内北部の高台にある。(撮影/松本かおり)


 ラグビー部は1970年に創部した。花園に8回出場している。
 1986年度に初出場。その年から3年連続出場を果たして1987年度大会では3回戦に進出。1993年度大会では4強に入る旋風を起こした。

 少し時間をおいて、5回目の花園は2000年。2004年度、2006年度には 8強入りし、聖地を沸かせた。そして、2008年度大会への出場を最後に大舞台からは遠ざかっている。
 2022年度には県予選決勝まで勝ち進み、14年ぶりの花園に近づいた。しかし、その時は北陽台に14-31と敗れた。2023年度、2024年度も4強に入るも、もう一歩の状況が続いている。

 今回の新人大会は、そんな中でライバル校に勝ち、優勝したから喜びは大きかった。新人大会王者になったのも、北陽台に勝ったのも10年ぶりだ。
 昨年、同じ新人大会では準決勝で北陽台に17-50と大敗していることを思えば、2025年度のチームの滑り出しがいかに充実したものか分かる。

 その原動力になっているのが、この4月から3年生になる代の存在だ。18人もいる。そのうち13人は長崎ラグビースクールの出身。中学3年時に九州ジュニア大会で優勝し、全国大会にも出場した選手たちが揃って進学してきた。

 長崎ラグビースクールの2022年度中学3年生、全18人のうちの13人がキタコーに進学したのは、同校を10年指導する向井雄一郎監督の存在がある。
 長男・悠人(はると)は小1の時に同スクールでラグビーを始め、いま、高校時代の父と同じジャージーを着て10番を背負う。現在のチームメートは、幼い頃からの仲間。「キタコーに行って、長崎でいちばんになろう」とみんなで話し、白と紺の段柄ジャージーを着ることにした。

 監督の存在は、進学理由のひとつではあっても、それがすべてではない。北陽台に勝てなかったこの10年。父は試合後に家に帰っても悔しさを見せることはなかった。
 しかし、いろんなことが分かるような年頃になり、胸中が想像できるようになった。「喜ばせてあげたいな」との思いが芽生えて当然だった。

 キタコーへ行こう。自ら、そう呼びかけたわけでもない。
 俺たちならやれるぞ。
 幼い頃から一緒にプレーしてきた仲間たちの、そんな思いが重なった結果だ。

新入生の入部を待つ新3年生は18人で、新2年生は12人。ラグビー部OBには元日本代表の吉田尚史(サントリー、三洋電機)らがいる。最近では2019-20シーズンを最後に東京サントリーサンゴリアスでのプレーを終えた竹本竜太郎、同じシーズンに東芝ブレイブルーパス東京でのプレーを終えた増田慶介らがいる。竜太郎の兄、隼太郎も北高出身。(撮影/松本かおり)

◆自分たちの感覚でボールを動かす。


 北陽台は、全国の舞台でも勝利を重ね、パワーとスマートさを併せ持つ。鮮やかなブルーのジャージーに憧れる少年たちが長崎にはたくさんいる。いまキタコーにいる選手たちの中にも、昔はそう思っていた者が何人もいる。

 そんな少年たちが、「どうせなら北陽台に勝って花園に行きたいな」となっていったのは、ラグビースクール時代の成功体験があるからだ。
「強い相手を倒したいと思って」 と、新チームで主将を務める北嶋勇翔(はやと)が言う。
「それで、みんなで悠人のお父さんがいるキタコーに行こう、となりました」

 ちなみに、北嶋主将と向井で組むハーフ団はチームの核だ。4歳からラグビーをしている主将は、小1の時に長崎ラグビースクールに加わった相棒と、それ以来プレーを共にしてきた。
 だから「悠人の考えていることは分かります。ずっと一緒にやってきましたから、声を出さんでも伝わっています。例えば僕が逆目に走れば、必ずついてきてくれている」と話す。

 向井監督は1977年生まれの47歳。キタコーのOBでもある。花園4強に進出した1993年度の1年生だ。
 高校日本代表候補にも入った。筑波大に進学し、年代別代表候補を経験。1999年度には主将を務め、トップチームからの誘いも受けたけれど、卒業後は故郷に戻って教壇に立つ。長崎県内のあちこちの高校でラグビー部の指導にあたってきた。

 諫早農で3年間奉職した後、五島や壱岐の離島で6年を過ごし、ふたたび諫早農で6年。母校に赴任して10年が経った。
 県新人戦での前回優勝の直後にバトンを受けた。

 以来、部員が15人ギリギリという時期もあった。しかし、心を折ることなくなんとか部の活動を続け、情熱を注いできたからこそいまがある。
 現在は18人の新3年生に加え、新2年生も12人。春になって新入生が加われば、さらに部員は増える。

写真左上が1977年生まれの向井雄一郎監督。筑波大時代は主将を務め、ポジションはNO8。189センチの長身。写真右上はWTB道端幹大。右下はSO向井悠人。左下はSH北嶋勇翔主将。(撮影/松本かおり)


 向井監督自身は、当時受験できる校区にキタコーがあったから、家に近い同校に進学した。北陽台に人も集まりはじめ、力をつけてきた頃だった。
 現在は受験の校区制限が撤廃された。自分がどこで学びたいか、ラグビーをやりたいかによって、進学先を決めることができる。

 受験事情は以前とは変わったけれど、近隣の少年たちが集まり、自分たちに合った、あるいは自分たちのやりたいラグビーをやるスタイルはキタコーに残っている。

 北陽台は毎年、FWを鍛え込み、ブレイクダウンが強い。タックルもいい。サイズのある選手もいて、チームをきっちり仕上げる。
 キタコーは違う。その時に集まった選手たちの特性によって強みが変わる。向井監督は、「自分たちの感覚でボールを動かす」と表現する。相手を崩し、そういう局面が得意な選手で攻め切る。形より感覚のイメージだ。

 そんな伝統が長く続いていることは、花園出場を果たした過去のチームが残した言葉からも分かる。
 1993年度に全国4強となったチームは、可能な限りFW戦に時間を割かない戦い方だった。当時のチームは「自由」や「自主性重視」といった言葉で特色が表現された。

 2000年度のチームは、準決勝でその年県内負け知らずの長崎南山に勝ち、決勝では海星に逆転勝ちを収め、全国切符を手にした。
 その時のチームを率いた市村和俊主将の言葉が新聞の試合リポートに載った。そこには、「常に自分たちで考える機会を与えてもらったことで、土壇場での精神面の強さが養えた」とある。

 そんな過去のカラーは、随分歳月が過ぎた現在のチームの特色とも重なる。
 向井監督は「型にはめるより、自分たちで考えてやるラグビー。そのときの人でスタイルが変わる」と話す。そこにこのチームの魅力があるのだが、指導は簡単ではない。

◆スローガンは「ALL OUT」。


 花園に行けば、必ずと言っていいほど結果を残す北陽台のラグビーは、よくまとまっていて、ハードワーカーが多く、力強さと速さのバランスがいい。多くの学校のお手本にされるラグビーを実践する。
 しかし向井監督は「学ぶべき点、真似すべきところもありますが、同じラグビーはしない」と話す。対北陽台については、「相手の強みに対応しながら、自分たちのスタイルを出していく」と考える。

「ベーシックな部分をきちんとやった上で、それ以外の北陽台に勝る部分で勝負していきたい」
 展開力。個々の能力を活かすボールの動かし方。アウトサイドを攻略するイメージだ。

 教員として、ラグビーを通して一人ひとりができることを増やしていくこともいつも頭に入れている。
 ラグビーを楽しんでほしい。だから押し付けることはない。部員たちの発想を大事にしながら、その実現のためにサポートするスタンスだ。部員と一緒に、スタイルを作り上げていきたい。

 ただ、本当の意味でみんなの意思を尊重したいから、勝ちたい、花園に行きたいと思う気持ちも尊重する。「そう言うのなら、それだけのことをやろう。それを成し遂げるための姿勢を示そう」と呼びかけるのも、夢を叶えてほしいからだ。
「惜しかった、はもういらないよね」と気持ちに火を点ける。

「キーマンになれる選手が多くいる」と新チームを表現する向井監督。接点やセットプレーの強さを高めれば展開力が生きる。(撮影/松本かおり)


 ラグビーを長く指導しても飽きないのは、思い通りにいかないことが多いからだと思っている。
「選手が、自分が言った通りにプレーしたのにうまくいかない。思ったような結果が得られない。その一方で、こちらが言ったことと違うプレーをするのに結果を出す選手もいます」
 指導者人生とは、その繰り返しだ。

 勝負についての考察もおもしろい。
「負けた理由は分かるものです。でも、どうして勝てたのか分からないことは多い」
 明確な形があれば、勝利に向けてやるべきことは決まり、勝った理由も分かりやすいのかもしれない。しかし、長く勝っていないチームが常勝の相手を超えようとするとき、それでは壁は崩せない。

「なかなか超えられなかった相手に勝った時、その原因は、強い方の出来が悪かったからたまたま勝ったとなることがあると思います。それは間違いじゃなくて、相手にミスが出て、流れが来て、いろんなことがうまくいった時に結果が出ます」

 ただ、運任せにするつもりはない。
「原因がはっきりし過ぎるとおもしろくない」とは言いながらも、「ラグビーの教え方はいろいろある中で型にはめるつもりはないけど、しっかりとしたチームにはしたいですね」。

 例えば北陽台が相手なら、強いフォワードにクサビを打ち続けなければ前に出続けられるだけだ。ボールを手にした時にポジショニングができていないなら、今年のチームに何人もいるキーマンたちも力を出せないだろう。
 自分たちの特色を出すためにも土台作りを避けることはしない。

 2002年度、諫早農の部長兼コーチをしているときに県予選の決勝で23-17と北陽台を破って花園への出場を決めたことがある。
 中学時のラグビー経験者はいないチームが、当時の九州トップに勝った。10回やって1回勝てるかどうか。それに近い実力差はあったかもしれない。でも、その1回を決勝当日に持ってくることができたからこその結果だった。

 だから、ラグビーはおもしろい。コーチングの探求も尽きない。
 毎年、その年のメンバーの力を出し切れるスタイルを模索する。そして、「勝つ確率が10回に1回の相手なら、その1を、2、3と高めていけるように取り組む」。
 その日を花園予選決勝の時にぶつけられたら願いは叶う。

2月22日に長崎市内(ベネックス総合運動公園 かきどまり陸上競技場)でおこなわれたリーグワンD2、九州電力キューデンヴォルテクス×花園近鉄ライナーズでは試合運営を部員たちが手伝った。(撮影/松本かおり)


 長崎県1位として臨んだ九州新人大会(2月15日〜18日)では自分たちのスタイルを出せず、全国選抜大会への出場権を逃した(Bパート1回戦/38-7名護、準決勝/10-50佐賀工、3位決定戦/15-36高鍋)。収穫は、自分たちの時間を作れた時には佐賀工相手にもディフェンスが通用したことか。

 北陽台は選抜への切符をつかみ(Aパート優勝)、自分たちはミスで力を出しきれなかったその大会を経て、北嶋主将は「春の県総体で、また北陽台へチャレンジ」と、すでに挑戦者の顔に戻っていた。
 1月にライバルに勝てた理由を「前半に点を取られても諦めなかった。そして、外で取る、という自分たちの強みを出せたから」とする。

 あの日のハーフタイム、向井監督は、攻め切れぬ前半を過ごすも、僅差で食らいついていた選手たちを「ものにせんば」と後半に送り出した。勝利のチャンスをものにしろ、という意味だ。

 その期待に応えたキャプテンは、「この仲間たちと一緒にやれるのも今年で最後」と言って、「絶対に、勝たんば」と続けた。
 チームのスローガンは「ALL OUT」。出し切る。やり切る。


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