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みんなで楽しく、超えていく。<br>明治学院東村山高校[東京]
学校の創立(1963年)と同時にラグビー部も創部した。(撮影/松本かおり、以下同)

みんなで楽しく、超えていく。
明治学院東村山高校[東京]

田村一博


 花園に何度も出場し、ベスト8まで勝ち進んだことがある東京高校に勝った。
 東京都高校春季大会で、鮮やかなグリーンのジャージーが輝いた。
 4月28日、明治学院東村山高校(以下、明学東村山)は全員が躍動、38-24と勝利をつかんだ。

 東京都大会ベスト8進出の結果は、ちょっとしたニュースになった。
 東京高校に勝ったのは史上初?
 いや、チームの歴史は長い。だいぶ前に勝ったことがあるのでは。
 そんな会話があちこちで交わされた。

学校、グラウンドは東京都東村山市富士見町にある。
キャンパス内にあるシンボル的存在、ライシャワー記念館

 結論から言うと史上初だった。
 明学東村山高校ラグビー部は1963年創部。都大会で勝利を重ねた年もあったから、昔を知る人たちから「以前にあったかも」の声が出た。

 以前は東京都大会への参加校が現在よりはるかに多かった。1大会での勝利数が3つ、4つでも、なかなか上位進出は成らなかった。
 その中で同校は1980年代に、上位に近づいたことが何度かあった。

 そんな重みのある歴史を持つ一方で、部員集めに苦労した時期もある。
 だから今回、準々決勝で早実に0-55と敗れ、続く5位決定戦初戦の明大中野戦にも14-19と敗戦して関東大会出場とはいかなかったけれど、OB、関係者は部の躍進に盛り上がった。

 学校は西武線(拝島線/国分寺線)小川駅から徒歩10分ほどのところにある。
 緑豊かな敷地に高校生と中学生が学ぶ。キリスト教に基づく人格教育を教育理念とし、卒業生は、系列である明治学院大学のほか、積極的に国公立大学や難関私大への進学を目指す生徒が多い。
 学校創立は1963年。ラグビー部も同時に歩み始めた。

 校門からキャンパスに入ると、右手奥に2016年に全面人工芝化されたグラウンドがある。
 6月某日は、野球部とアメリカンフットボール部に挟まれてラグビー部が活動していた。

立派な人工芝グラウンド。大会にも使用される

 野球部が活動しているエリアには、OBの澤柳亮太郎投手が、2023年のドラフト会議を経て福岡ソフトバンクホークスへ入団したことを知らせる横断幕が掲げられていた。

 ラグビー部が力をつけてきた背景には、部員にラグビー経験者が増えたことがある。
 現在、3年生=7人、2年生=9人、1年生=11人の部員のうち、約9割が中学生の時から楕円球に触れていた者たちだ。

 学業成績のハードルは高いけれど、数年前に始まった運動クラブ推薦制度の影響もある。
 ラグビー、野球、柔道、バドミントン、アメリカンフットボールの5部で10人の推薦枠。1クラブ平均2人の入学が可能となる。
 しかし、他部に欠員が出た場合はその人数を加えることも可能だ。今年、昨年と、ラグビー部には同制度を利用して4人ずつが加わった。

 花園出場や関東大会出場など、目立った成績を残していないクラブだ。門戸を多少広げようが、目指してくれる少年が簡単に増えたわけではない。
 実際、ラグビー部の推薦入学1期生は現在の大学2年生世代。それまでは、手を挙げる者がいないのが現実だった。

推薦だけでなく、人が集まる仕掛けあり。

 いろんな人の目がこちらを向くようになったことの裏には、地道な活動がある。
 近隣の中学校を中心に、10を超える学校の部員たちが集まってプレーする『大連合』というチームがある。都大会の上位進出や関東大会への出場などの実績も残している。中学ラグビーの指導歴が長い、明尾泰行さんが愛情を注ぐ。

 明学東村山中の部員たちも参加している(現在3人)。その活動拠点として、同校ラグビー部のグラウンドを週に何度か開放しているから、いつも見ている高校ラグビー部に愛着を持つ者も増えてきた。
 ラグビースクールの活動や、交流大会の会場に提供してきたことも、同じように、明学東村山高校ラグビー部に興味を持ってもらうことにつながっている。

中央が斎藤創監督。左は辰野永OB会長。20年間の監督経験もある

 監督を務めるのは斎藤創(はじめ)先生だ。1976年1月31日生まれの48歳。保健体育科で教鞭をとる。
 立教新座高校でラグビーを始めた。父は同校内にあるチャペル(付属礼拝堂)で働く牧師、チャプレンだったから、自宅は学校の敷地内にあった。

 自宅前に広がるグラウンドを走り回っていたのがラグビー部だった。その姿を見て親近感を持ったのが、生涯付き合うことになるスポーツとの出会いだ。
 高校卒業後は日体大に進学。CTBとして活躍した。大学卒業後、明学東村山高校で非常勤講師を6年間務めた。

 その間は勤務を終えると、母校の立教新座に向かい、ラグビー部のコーチ、監督を務めていた。
 仕事もラグビー指導も東村山の地でおこなうようになったのは、専任の教員となった7年目からだ。
 そこからは顧問として平日の練習の指導にあたり、クラブの土台を固める日々が続いた。

 同部では長年、OBが監督を務めるのが伝統だった。例えば現在OB会長の辰野永さん(たつの・ひさし/65歳)は、1983年から2003年まで20年も監督を務めていた。
 その後もOBたちが監督として愛情を注いできたが、歴史が変わったのが2021年春だ。ラグビーへの造詣が深い斎藤先生を推す声がOBたちからも出たことがきっかけだった。

 推薦制度の導入による経験ある部員の増加。そして、部員たちの学校での日常も知る人が芯となった。結果、チームの進む方向が、よりシャープになったかもしれない。
 その状況をOBたちが愛情でくるみ、太くしている。何代にも渡る世代がいるファミリーの絆が、いまも部を支える大きなエナジーとなっている。

3年生のPR鈴木覚は3番の重荷を背負ってプレー。副将も務める

 チームの充実は、国体チームの候補に3選手(3年生のLO山崎寛人、FB本多晃太朗、2年生のNO8板倉季未)が選ばれたことからも伝わる。
 ただ、経験者が集まっただけで強くなれるほどラグビーが簡単ではないことは、多くの人が知っている。
 緑のシャツの少年たちが進化できているのには他に理由がある。

 キリスト教を教育の基本としているため、公式戦や合宿を除き、日曜日は部活動をおこなわない。
 他の日は16時から18時の2時間のうちに練習を終える。その中で、自分たちの武器を磨く。

 斎藤監督が大切にしているのは、将来を考えての土台作りだ。
「ラグビー経験者も多くなり、専門的な質問も出ます。そんな時は、(難しいことは)大学で教えてもらえば、と伝えています」

 お金をかけた強化や、システマチックな枠にはめることはしない。
 力のある1年生が現れても、起用しすぎて怪我をすることは避ける。急ぐことなく、上級生に寄ったチーム作りを進める。

 毎年、その年のメンバーで勝負をしながらも、選手個々については、時間をかけて育成する。
「やって楽しい、見ても楽しい、ボールを動かす、速いスタイルをいつも目指しています。その取り組み方については、毎年の子どもたちの顔ぶれを見て決めています」

全員が左と思うなら、それが正解になる。

 経験者が増えたとはいっても大駒が揃っているわけではない。全員が同じ絵を見てプレーしないと勝てない。
 型にはめずにそれを実現するには、コミュニケーションを密にとることが求められる。普段の練習時から注力している点だ。

 例えば試合のある局面。「私が右に攻めたらいいのに、と思うシーンでも、全員が左と思い、みんなで動いたらそちらの方がいい結果が残る。自由な発想を大事にしたいと思っています」

 東京高校を破った試合は、チームが一丸となれた時間だった。
 何度もピンチはあった。しかし、抜かれそうになっても全員で反応してなんとか止める。ミスを呼ぶ。
 誰も休まず動き続け、フェーズを重ね、忠実なサポートから得点したシーンもあった。

 前年は都大会ベスト8の壁に跳ね返されること3度。毎度、本郷高校に負けた。
 新チームの新人大会では早実に敗戦。だから春季大会の相手が東京高校と決まったときから、「今度こそ」と胸に誓って準備を進めた。

 ターゲットとしていた試合に勝つ自信を持って臨めたのは、3月の長野・諏訪で実施した春合宿で徹底的に走り込んだからだ。
 階段、坂道など、地形を利用して毎日10キロ近く走り込んだ。それぞれが「過去イチきつかった」という練習を経て、強くなれた。

 タックルして、すぐに起きて、また走って。東京高校戦では、それを実践できて根負けしなかった。
 ラストシーンも、攻め込む相手を粘り強く止め、ノックオンを誘う。フルタイムの瞬間はそんな感じだった。

S0の中村海惺がキャプテンを務める

 中村海惺(かいせい)主将(3年)は、小金井ラグビースクールの出身。中学までCTBだった。SOになったのは、母の母校でもあるこの高校に入学してからだ。
 東京高校戦の勝利について、「それまでミスが多かったのに、あの試合はミスがなく、サインプレーも決まった」と集中力の高さを勝因に挙げた。

 入学から3年目にして大きな成果を残せたことについて、「ラグビー経験者が増えたことは大きい」と言う。しかし、それだけではないと感じている。
「みんなでアイデアを出し合い、これはどうだ、とか意見を出し合うチームです。そして、オンとオフがはっきりしていて、やる気のスイッチが入ったときは凄い」
 それが東京高校戦だったという。

「でも、あそこで勝って気が抜けてしまったのは反省です。(今後の大会では)もっと上までいきたい」
 ディフェンスが得意だ。「もっとタックルして、チームを引っ張る」と話した。

 FBの本多晃太朗(3年)は、高校に入ってからラグビーを始めたけれど、春季大会の活躍で注目を集め、東京都選抜候補に選ばれた。
 中学まではサッカーに熱中していた。FCトレーロスでセンターフォワ―ドとしてプレーしていた。

 中学から明学東村山に学んでいたこともあり、高校進学のタイミングで斎藤先生に誘われて道を変えた。
 転向後、すぐに楽しくプレーできた理由を、「サッカーに手が生えた感じだったので」と独特の表現法で伝える。最初からFBでプレーした。

東京高校戦で3トライのFB本多晃太朗(3年/左)

 同期7人中、初心者は自分も含め2人だけだったけれど、周囲に教わり、やってみて、自分のものにしていった。
 得意なプレーはカウンターアタック。ディフェンダーを横に動かしておいて、スキができたら鋭くタテを突く。ハンドオフでタックラーを落とし、自ら走ったり、味方に繋ぐ。相手にしたら厄介な存在だ。

 東京高校戦では3トライを奪った。
「あの試合は、みんな関東大会出場を目指していたので、この先に行かないといけないと思い、全員が燃えていました」と振り返る。

みんな、もっと上を目指す気になっている。

 BKだけでなくFWにも働き者は多い。3番、PRの鈴木覚(さとし/3年)は、小2で西東京ラグビースクールに入るも、府中八中時代はバドミントン部の活動に力を入れて、楕円球とは少し距離ができていた。
 しかし高校入学と同時にグラウンドに戻った。

 LOや1番をしていたが、新チームになって3番を任された。バイスキャプテンも務めている。
 鈴木は大一番の勝利の要因について、「動き勝てた。そして、内から前に出るディフェンスが良かった」と話す。

 この春に良い結果を残せたことで、他チームから警戒されることを覚悟する。しかし、「みんなの気持ちが前向きになり、もっと上を目指そうという空気が出てきています」と話し、仲間の存在を頼もしく感じている。
 181センチ、99キロ。相手を押し込み、味方を牽引する。

パーソナルトレーニングにも取り組み、肉体改造を進めるLO山崎寛人

 LO山崎寛人も3年生。小金井ラグビースクールにて、2歳から楕円球と戯れ始めた。
 兄と同じように國學院久我山など強豪チームへの進学を考えた時期もあった。しかし、「中3の時に下剋上精神というか、強くないチームで、上のチームを追い越したいと考えるようになり、ここを選びました」。

 高校1年時に180センチ、73キロだった体は、いま186センチ、96キロになった。
 U16東京都代表になんとか入ったものの、そこで周囲との差を感じ、体作りに真剣に取り組んだ成果だ。

 学校での練習だけでなく、本格的なパーソナルトレーニングにも取り組む。アスリート・フードマイスターでもある母の作る食事の影響も大きい。
 体の成長とともに、目標が高くなっていく自分がいる。

 部員の思いは、山崎と同じ感覚だろう。
 上のチームを食いたい。そんな欲求を、ターゲットを絞り、死ぬ気できつい練習に取り組んだら、少しくらい距離があっても超えられた。
 その体感と快感が、また自分たちを走らせてくれる。

 いま、3年生たちは口々に「大学でもラグビーを続けたい」と話す。
 勝てたからラグビーが面白くなったのか。やっているラグビーが楽しいから、熱中できているのか。その両方が行ったり来たりしている。

 創部から61年受け継がれてきたものは、仲間と肩を組んで、超えていくことを楽しむマインド。
 6月8日には、卒業生が営む中華料理店で4年ぶりに1年生歓迎会が開かれ、高校1年生の部員11人と女子マネージャー2人、中学1年生の2人がファミリーに加わったお祝いをした。
 こちらも素晴らしいカルチャーだ。

仲のいいクラブ。ファミリー的空気が漂う


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