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山沢拓也[日本代表]◎本能がアートに溶ける。
やまさわ・たくや/1994年9月21日生まれ176㎝、84㎏。SO、FB。熊谷東中→深谷高→筑波大→埼玉パナソニックワイルドナイツ(2016〜)。日本代表キャップ7。ジュニア・ジャパン、U20日本代表、高校日本代表。サンウルブズ。(撮影/松本かおり)

山沢拓也[日本代表]◎本能がアートに溶ける。

藤島大


 それは論争であり、酒場の愉快な話題であり、その人の生き方への問いである。

 で、どっちが好きなのよ? きらめくアーティストか手堅い役人か。いや。本当はこんな比較は間違いだ。

 この場合、どちらも建築家である。それまで誰も目にしたことのないような美しいビルを手がけ、しかし、なかなか完成に至らぬ前者。予算との折り合いをつけ、必ず工期に間に合わせる後者。いずれを選ぶべきか。ラグビーの背番号10をめぐる古くて新しい命題だ。

 先の6月29日。東京・秩父宮ラグビー場。JAPAN XVの10番を山沢拓也が担った。埼玉パナソニックワイルドナイツ所属、複数の位置を楽々とこなすが、本当のポジションは「ヤマサワ」である。丸い球のフットボールでよく用いられた表現なら「ファンタジスタ」。もし建物ができあがれば人々はうなる。

 前週のイングランド戦で途中出場をアナウンスされると、国立競技場の拍手と声援はひときわ大きかった。記者席で「お、山沢、人気あるな」と記者でないような素朴な言葉をひとり吐いた。スポーツ観戦の喜びに「ひらめき」との遭遇はやはり欠かせないのだ。

 対マオリ・オールブラックス初戦。ゲーム制御を託されるSOでの先発は大いに注目された。2019年と23年のワールドカップに姿はなかった。ファンにはいくらか待たされたという感情もあった。

 10-36の敗北。「15」でなく「10」なのでチームを勝たせられなかったら高い評価は得られない。ただし武道の達人が瞬間移動するみたいなランなら随所にあった。

「(自身が)ボールをもらうところまではオーガナイズできました。それ以降は、もっとうまくできた(はず)」

 囲みの取材で述べた。エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)の掲げる「超速」について聞かれると「いまのラグビー、きついけど、充実している」と明かした。

 あらためてポジションはヤマサワ。その上で質問した。10番と15番、どちらが好みですか?

「どっちも。10番でコントロールするのも楽しいですし、15番での外の視野を突き詰めるのも楽しい」

 スキのない答え。と、普通の選手なら書くが、この人は本心でそう思っているとわかる。

 山沢拓也は本当にラグビーが好きなのだ。「ラグビーそのもの」としてもよい。ラグビーの練習よりもラグビーを、本欄の独断で言い切ってしまうと、ジャパンよりもラグビーを愛している。

 以下、筆者の昔話。ときに何時間もやまぬ猛練習のクラブで、いつも元気はつらつな人間がいた。あれは「困難にめげない自分」が好きなのだ。他方、ふらふらになるまで続く反復の鍛練ではまったく精彩を欠き、でも実戦形式のアタック&ディフェンスや試合になると、とたんにいきいきとする者もいた。

 ある後輩部員がつぶやいた。「あいつはラグビーが大好きなんです。だから長時間練習のようなラグビーなのに楽しくない状況では抜け殻になるんです」。抜け殻にはなるのに試合でもいきいきとしなかった後年のスポーツライターはなるほどと思った。

 いま29歳の芸術家が16歳、花園ラグビー場で初めて凝視した。2011年1月1日、埼玉の深谷高校の10番として京都の伏見工業高校に挑んだ。県立高校の1年生は、突然現われて、たちまち天才を発散した。15-65の完敗がむしろそのことを教えた。あれほどの劣勢にあって、ちゃんと最後の最後、みずからの走りでトライを奪った。ちなみに真紅のジャージィの15番は同学年の松田力也、現在にいたる好敵手である。

 当時の新聞報道。「熊谷東中時代まではラグビーよりもサッカーで活躍した。高校進学時には武南(埼玉)、流通経大柏(千葉)、山梨学院大付の全国優勝高など6チームから誘いを受けた逸材」(スポーツニッポン)

 達者なキックもうなずける。サッカー場では飛び切りのロングスロウで鳴らしたらしい。

 筑波大学へ進んで、ワイルドナイツを選び、初の日本代表キャップ獲得は2017年、ということは7年前の4月の韓国戦であった。同年の香港戦とあわせて計3キャップを得る。ところが次のテストマッチ出場(ウルグアイ、オールブラックス、イングランド)はこの5年後まで待たなくてはならなかった。

 いまここまで書き進んだ時点のキャップ総数は7。16歳の驚きの現場にいた身には不当なほど少なく感じられる。

マオリ・オールブラックス戦で何度も防御を突破した。(撮影/松本かおり)

 冒頭の「論争」に戻る。ノックアウトの大接戦が初期設定のワールドカップでは、あるいは国内リーグのプレーオフでも、コーチはどうしても、ひたひたと陣地を刻み、スイスの機械式時計のようなプレースキックでカチカチと3点を積む「10」に心を傾ける。不滅の呪文は「敵陣!」である。

 こうも記せる。万事、そうそう滑らかに攻防は運ばないことを前提と定める。ひとりの選手としても連戦で脚のどこかを打撲したり、右手の小指が変な方向に曲がったりする。それでも勝利を引き寄せる。このメンタリティーを最上の価値とする。

 自分が最良のコンデイションなら必ず最高のプレーをしてみせる。必然、白星は転がってくる。こちらの心構えは、生きるか死ぬかのステージでは、いくらか危なっかしい。 

 本能が野生だけに収まらずアートにも溶ける。冒頭の論争の片側の主役の定義である。だから楽しい。もちろん山沢拓也のことだ。

 よりダイレクトな松田力也、若く強靭な李承信との競争は、いかに推移しようと見ごたえがある。全員がランナーの資質に富むのは近年のラグビーでは財産となる。指揮者がタックルをいとわず前に出てくれたらティンパニーの奏者も楽なのである。

 古い愛好家は覚えておられるだろう。1980年代後半に「フォックスかボティカか」の討議がニュージーランド国内のすべてのパブでなされた。

 グラント・フォックスは遅く、小柄で、しかしキックの精度は格別だった。フラノ・ボティカは速く、小柄で、まずまずのキックときらめくランニングで知られた。

 往時の名SOの松尾雄治さんが19年前、逸話を教えてくれた。1982年のジャパンのニュージーランド遠征で同国の大学選抜であるNZUと対戦した。まだ国際舞台に出る前のフォックスがいわゆる「トイメン」であった。

「あとでオールブラックスの主力になったグラント・フォックスなんか、ジャパンの遠征で戦ったけど、俺のパンツにさわれなかった。イモでしたよ、あのころは。百発百中、抜いた。腰が砕けてたもの。あんなのオールブラックスに選ばれて、がっくりきたよ。でも、そのあとゴールキック、夜まで練習してた。あんなに抜かれたくせに黙々とゴールキックですよ」(『ラグビークリニック』)

 かの国にはラグビーの才能はひしめいている。だからこそ世界一になるために欠かせぬピースは「無双のキッカー」であった。ニュージーランド・ヘラルド紙のウェン・グレイ記者の結論はこうだ。「フォックスには信頼に足る精度があり、ボティカには輝きと不安定さが混在していた」。キャップ数で「46」と「7」の差がついた。1990年代後半のアンドリュー・マーテンズ(70キャップ)とカーロス・スペンサー(35キャップ)の構図も重なる。

 松田か山沢か。李か山沢か。もちろんキックを追うチェイスに制限のかかるルール変更をふまえてフィールド最後尾のFBに落ち着くのも理にかなっている。滞りなく竣工式をすませたあとの壁にとりどりの色の絵を描くのは悪くない。

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