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ありがとう。そして始まる。中尾隼太[東芝ブレイブルーパス東京→三重ホンダヒート]
なかお・はやた。1995年1月20日生まれ。176センチ、86キロ。SO、CTB。長崎中央ラグビースクール→長与ヤングラガーズ→長崎北陽台→鹿児島大→東芝ブレイブルーパス東京(2017年〜2024年7月)→三重ホンダヒート(2024年8月〜)。日本代表キャップ1。セブンズ日本代表。(撮影/松本かおり)

ありがとう。そして始まる。中尾隼太[東芝ブレイブルーパス東京→三重ホンダヒート]

田村一博


 住み慣れた場所を離れ、この夏から三重・鈴鹿に暮らす。
 2017年の春から7年、東京・府中で過ごした。中尾隼太はリーグワン2024-25から三重ホンダヒートでプレーする。

 5月26日、国立競技場で埼玉パナソニックワイルドナイツを24-20と倒し、初のリーグワン王者となった東芝ブレイブルーパスのスタンドオフ。10番のジャージーは、ニュージーランド代表56キャップのリッチー・モウンガが着続けたため、中尾は2023-24シーズン、2試合の出場にとどまった。
 その前シーズンも怪我があり、3試合だけの出場だった。

 試合への出場チャンスを得たい。それも移籍の理由のひとつだ。
 それに加え、生き方もある。
「人生において、もともと一つのところにとどまりたくない、と考えてきました。いろんな環境で、いろんな景色を見たいと思っています」

 モウンガがやって来て、チームに欠くことのできない存在になったタイミングと、違う景色を見たい意欲が疼き出した時期が重なった。
 そこにヒートからオファーも届いて、西へ向かうと決めた。

 ヒートは、これまで以上に戦力強化を進めると聞いた。
「これから昇っていくチームと感じ、自分の力を生かせる気がしました。真面目なチームとの印象もある」
 ラグビーをしていなかったら、三重に暮らすこともなかっただろう。そこでチャレンジすることも、自分らしい。

 ヒートに何をもたらすことができるのか。
 まずはこの7年間に見た景色がある。低迷期から頂点に歩を進めたチームの足取りを見た。

 ブレイブルーパスに加入した頃はトップリーグ時代。1年目は6位だった。翌年は11位に沈んだ。
 2020年はコロナ禍でリーグ不成立となり、次の年は9位。リーグワン初年度は4位となってプレーオフトーナメントに進出するも、同リーグ2年目は5位。2023-24シーズンに頂点に立つまで、チームは紆余曲折の道を進んだ。

「よくない時期も優勝も経験しました。その過程を知れた。何があったか、どうやったらうまくいったか。これから上がっていくチームに与えられるものは多いと思っています」

 世界一と言っていいモウンガと、同じ空間にいることができたことも大きい。
「彼自身がどういう準備をして試合に臨んでいるのか。その中で、チーム全体をどうまとめていくかも見ることができました」

 試合とチームのオーガナイズ。相手との駆け引き。
「そこが10番の役割であり、僕がプレーする上でいちばん好きなところです。練習の中で、その部分を(モウンガ相手に)チャレンジすることもありました。その中で学び、分からないことを聞いたりした。それはすごく大きなことですし、その経験はこの先に生きると思います」

 ブレイブルーパスでのラストシーズンは、悶々としつつも全力を尽くした。
 シーズン開幕前に太ももの裏を痛め、復帰後、練習試合で足首を痛めた。万全のコンディションは整わず、注射などで痛みを誤魔化しながらプレーを続けた。
 シーズン終了後、両足首を手術した。

ブレイブルーパスでのラストシーズン。出場機会は少なかったものの、チームに貢献することを考え続けた。(撮影/松本かおり)

 持てる力を出せなかったシーズンも、モウンガが家族の不幸もあって帰国した際は2試合で先発した。
 ヒート戦は雨と相手の粘り強い防御に苦しむもチームを8-7の勝利に導く。逆転の決勝PGを自ら決めた。
 続く東京サントリーサンゴリアス戦でも36-27と勝利。その試合ではプレーヤー・オブ・ザ・マッチに選出された。2試合とも80分フル出場だった。

「(なかなか出番は回ってこなくても)チームにいる以上、どうやったら貢献できるかを考え続けました。そして、成長することを絶対にやめてはいけないと思った。常に準備しておけば、チャンスが巡ってきた時に必ず出せる。そんなマインドでいました」

 そうやって、仲間とともにリーグ制覇を成し遂げた。
 手にしたかった栄冠をつかんだのに一つのところにとどまらない生き方を貫くのは、これまでの人生の中でも環境を変えた時に、自分自身の価値観やキャパシティーが広がったと感じた経験があるからだ。

「これまでいた場所で常識だったことが、次では常識でなくなる。適応力が高まる。それはラグビーだけでなく、この先の人生でもめちゃくちゃ大事だと思う。なので、新しい生活環境や新しいラグビーの中に進もうと思いました」

 ヒートで新しいコーチや仲間と出会い、アジャストして、パフォーマンスを出す。高める。
 ラグビーの面だけでなく人生面でもプラスになると確信している。

◆プロ転向は、人生で初めての能動的な決断。


 歩んできた道のすべては学びの時間だったと思っている。
 チームが低迷期を抜け出し、今回優勝にたどり着いた理由を、「ブレイブルーパスと言えばこれ、というDNAのようなものをあらためて作ったからだと思います」と言う。

「もちろん選手層が厚くなり、コーチの指導も行き渡った。ベーシックなスキルも上がったことも理由だとは思います。選手たちの理解度も上がり、選手間の関係性も密になったことでいろんなことが機能するようになりました」

 突然強くなったわけではない。
「今年勝てたのは、これまでやってきたことが、ガチャッとハマったからだと感じています」

「もちろんモウンガや(シャノン)フリゼルが来たのも大きいし、誰からも信頼される(リーチ)マイケルさんがキャプテンになったのも大きい」と分かっている。
 が、過去がなければいまはない。

 長くチームを支えてきた人たちがいてこそ成功は訪れた。功労者の中のひとりが小川高廣(SH/2019年度から2022-23シーズンまで共同主将)だ。
「11位になった時、どんなにチームが負けても、このチームは勝てる、と小川さんは本気で信じ続け、また優勝できると言い続けていました」
 試合が終われば話し、みんな集まろうぜ、と声をかけていた姿を覚えている。

「そんなことを繰り返してベースが固まっていったところに力のある若い選手が入り、育ち、いいタレントも加わってチーム力がグッと高まったと思います」

 2022年の夏からプロ選手となった。「もっと高いレベルに行こうと考えた時、自分のエネルギーと力と時間を、もっとラグビーに投下しないといけないと思いました」という理由からだ。
 その決断について、「意図的に思い切った選択をしたこと、能動的な選択をしたのは人生で初めてでした」と話す。

「それまで誰かが見てくれていて、チャンスを与えてもらい、引っ張ってもらう人生でした」
 進学も、家族や先輩たちの影響を受けて決めてきた。ブレイブルーパスへの入団も、関係者が導いてくれたから実現した。

「(プロ転向は)自分から踏み込んだ道です。だから行動や判断は、すべて自分の責任。そういう環境に身を置き、決断できるようになることが必要だと思ったタイミングがあの時(2年前)だった」

 数か月後に日本代表としてフランス代表戦に出場した。
 しかしその後、前述のようにケガが続く。そして今回の移籍の判断。いいことも、沈むこともあったけれど、敷かれたレールから外れたことに後悔はない。

「結構、大器晩成なんですよ。だからいまも、(最近の不完全燃焼という状況を)乗り越えたらもう一回波が来るな、と思っています」
 自身のこれまでの歩みを、「やってきたことが積み重なってポンと跳ね、しばらく横ばいが続いた後、積み重ねたことで、またポンと跳ねる。その連続」と愉快そうに説明した。

 2023-24シーズンの納会の場で中尾は、仲間たちの前で話した。2つのことに感謝しているとした。

 ひとつは、自分の可能性にブレーキをかけないことが大事と、ブレイブルーパスでの日々の中で教わったことへの感謝の気持ちだ。

ブレイブルーパス時代のベストゲームのひとつが2022年5月1日のサンゴリアス戦。27-3で勝った。(撮影/松本かおり)

「自分は、これくらいまでしか行けない、と(自ら)決めつけるような人生を歩んでいました。そんなとき、いろんな人たちがいい働きかけをしてくれたことで、思ってもいなかった未来(ブレイブルーパス入団など)が開けました」

 自分はこの程度。
「そんな限界を決めれば絶対にそこを突破できない。でも、可能性を信じ続けて前に進めば到達できると学びました」

「大人になっても喜怒哀楽を感じられた」ことへの感謝の気持ちも伝えた。
「みんなと、いろんな瞬間を一緒に味わうことができて幸せでした。11位もあった。優勝も。飲み会で危ない夜があったり、そういういろんな感情を一緒に感じられました」
 一生の宝物となる時間にありがとう、だ。

 特に一緒に密な時間を過ごしたのが、4歳上、キャプテン経験者である小川だ。入団当時から9番、10番でコンビを組んだ。

 試合に向けての準備から「どうする」、「どうしたい」と話し、戦いを終えれば「飲みに行き、タカさんの家に行っても話し。で、また翌日も一緒にビデオを見る。そんな感じでした」。
 チームが低調なときも、チームをどうやって立て直すか一緒に考えた。ともに歩いた。
 その関係も、一生ものだろう。

◆10番を楽しめるようになったのは最近。「それがいちばんの成長」


 入団直後から出場機会を得て、近年はなかなかピッチに立てなかった足取りとは違い、ラグビーを楽しめるようになったのは最近と言うから不思議なものだ。

 国立大学の鹿児島大から加入したばかりの若き頃は、責任感を感じてばかりだった。
 名門チームで10番を任されている。「このレベルにないといけない、こうしないといけないという思いが強かった」と振り返る。

「だから一生懸命やって勝っても、感じるのは安堵感、安心感でした」
 それでは、ラグビーをやっていても幸せじゃないな、と思ったこともある。

 明らかに相手の10番より自分の判断やスキルレベルが劣っていて負けたと感じたこともある。
 でも、誰もはっきりとはそう言わない。そんな中で次の試合がやって来る。自分で自分にベクトルを向け続けた。もがき、少しずつ前進した。

 プレッシャーから解放されてプレーできるようになったのは、試合に出られないことも含め、いろんなことを通り越してからだ。

 いまは、ラグビーをしたい。みんなとプレーしたい。難しい試合もあるけれど、そういうプレッシャーも含めて楽しめるようになった自分がいる。
「それが(7年間の中での)いちばんの成長だと思います」

「勝っても負けても、俺を選んでいるのはコーチ、と思えるようになりました。失敗もあります。そういうときも、使ったのはコーチ、と。自分は力を出し切ることだけに集中するようにしました。それでダメだったら、次に改善すればいい。深く受け止めるのは大事ですが、次に進む。切り替えられるようになりました」

聡明。相手の駆け引き、状況判断を強みにする。(撮影/松本かおり)

 ブレイブルーパス以外のところにも、学びの場、気づきの環境はあった。2022年、日本代表に選出されたことも転機になった。
 インターナショナルレベルで勝利を求められる集団だ。あれもこれも高いレベルでプレーすることが求められる。「まんべんなくスキルレベルを上げていく必要がありました」。

 例えば個人の特長をレーダーチャ―トで表す時、求められるのは、各項目で高い数値、評価を刻み、全体を広げること。
「そうしていると、尖ったところがなくなった気がしたんです。代表に行く前は、自分の強みはここ、というものがあった。それが、(必要とされる)型にはまらないといけないように感じました」

 このスキルが必要。体型はこうしてほしい。
 そうしているうちに、確かに伸びたところもあるのだが、凹んだところもあるような。平均化したように感じた。そのときの感覚を「あまり(自分の)価値がなくなった」と表現する。

「なので、できないことはない方がいいのでしょうが、いいところを伸ばし、そこでいちばんになりたいと考えるようになりました」
 自身の持ち味を、ラインアタックと駆け引き、そしてディフェンスとあらためて言う。

 新チームでの新シーズンが開幕(2024年12月)して1か月ほど経つと30歳になる。しかし、これから「まだ全部伸びると思っている」と成長を確信する。
 自分の体への理解は深まり、トレーニング、ケアとも、より効果的になっている。

「判断、そのもとになる知識も蓄積されたものがある。自分の強みである駆け引きの部分も、以前以上にゲームの中に反映できるようになっていると思っています」

 鈴鹿をホームタウンとして約1か月。「ゆっくり、時間をかけて身体を整えています」という。
 Good foods, people, nature.
 そんなメッセージから新生活の充実が伝わる。どこへ行っても適応し、成長の糧に。モットーとしてきた生き方を実践する。

 3か月前に戦った相手がいまは仲間だ。
 その時は8-7でブレイブルーパスが辛勝も、粘り強いディフェンスが印象的だった。大きなポテンシャルを秘めているように感じた。
「そこに自分がアタックのエッセンスを加えられたらいいですね」

 鈴鹿サーキットに響くエンジン音が日常になってきた頃か。それがまったく気にならなくなれば真の鈴鹿の住人。2024-25シーズンの開幕の頃までには、きっとそうなる。
 パワーアップしたヒートのハンドルを握り、スタートダッシュを実現させたい。

 大事にしてきた「置かれたところで咲きなさい」の言葉を胸に人生を歩む。

「その場所、その場所で、楽しみ、やり甲斐を見つけていきていきたい」。(撮影/松本かおり)

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