logo
「未来」が似合う好ランナー。小野澤謙真[慶應義塾大学1年]
PROFILE◎おのざわ・けんしん/2005年6月2日生まれ。180センチ、85キロ。WTB/FB。静岡聖光学院高校→慶應義塾大学1年。高校日本代表。(撮影/松本かおり)

「未来」が似合う好ランナー。小野澤謙真[慶應義塾大学1年]

生島淳

「小野澤」が日本のラグビーシーンに帰ってきた。
 小野澤謙真、慶應義塾大学の1年生。
 お父さんは、「うなぎステップ」で鳴らした日本代表キャップ81の小野澤宏時さんだ。

 息子は中学の終わりから楕円球を追いかけるようになった。
「中学校まではクラブチームでサッカーをやっていました。小学生の時の夢はプロのサッカー選手になることでしたが、中学生の段階でだんだん現実が見えてくるじゃないですか。ユースには上がれないな、とか。中学3年生の時にコロナ禍が始まって、サッカーがストップしてしまったんです。そんな時、身近にあったのがラグビーでした」

 父の宏時さんは女子セブンズのアザレアセブンの監督を務めており、小野澤は彼女たちに交じって気軽にラグビーを始めた。

「ルールとかよく分かってなかったですが、楽しかったです。中3くらいになると、スピードで抜けちゃったりして。学校は中高一貫に通っていたので(静岡聖光学院)、サッカーでは全国大会を狙えないけど、ラグビーなら狙えると思いましたし、友だちにラグビー部が多かったので、高校から入部を決めました」

 スピードがあり、サッカーの経験があるということで、ポジションは11、14、15のバックスリー。当時を振り返ると、プレーは自由奔放だったらしい。「感じたままに動く」ノリで、抜けそう? 抜いた。キック? 蹴ろうという感じだった。

 変化が訪れたのは高校2年の時の留学経験だった。
「オーストラリア西部のパースに留学して、そこでラグビーの面白さ、深さに気づきました。バック3って、チームをコントロールできる立場にあるんですよね。実際、試合を見てたら、バック3のコミュニケーション力が高ければ、試合に楽に勝てることが分かったんです」

6月12日には「JAPAN TALENT SQUADプログラム」に参加して宮崎へ。日本代表のエッセンスにも触れ「もっとコミュニケーションをとらないといけないと思いました」。(撮影/松本かおり)

 この「気づき」を得られたのは、小野澤がサッカーをプレーしていたことも大きかった。サッカーにはオフサイドラインの上げ下げがあり、他のメンバーとの連係を意識する時間が長い。そうした土台があったからこそ、ラグビーのバックスリーの役割がスーッと飲み込めた。

 さらに、フィジカルの面でも自信になったことがあった。
「サッカー経験者からすると、最初はタックル出来ないです。怖すぎて(笑)。でも、オーストラリアでタックルのスキルを磨けば大きい選手でも倒せることに気づいたんです」

父のステップを学ぶ。

 そして帰国。意気込んで臨んだ高校2年の静岡県大会では東海大静岡翔洋に12対22で敗れた。

「その年のチームは、しっかりディフェンスをして、アタックではキックでのエリアマネージメントを重視して、セオリーを大切に試合を進めていく感じでした。ただ、静岡聖光はFWのサイズがあるわけではないので、ゴール前に行ったとしても、モールで押し切れるわけでもない。そこで自分たちが3年生になって、『とにかく、たくさん攻めて、攻め勝とう』と目標を立てたんです」

 そのころになって、小野澤は全国的にも名を知られるようになった。高校2年の11月には熊谷で行われたセブンズユースアカデミーにも参加する。
「いろいろなステップを見たり、学んだり、真似したり。キックの正確性も高めないといけないと思いましたし、考える幅が広がりました」

 高校2年の終わりから、「上達段階に入った」と振り返る小野澤だが、高校3年になってさらに上昇気流に乗る。
「高3の春までは、ボールを持ったところでのスキルのことを意識してました。ステップで抜く、タックルされても倒れない、とか。でも、秋に向けてボールのもらい方を意識するようになりました」

 ラグビーでは「ボールを受ける前に抜く」という表現がある。パスを受ける前にランニングコースで相手をずらして、裏に出る。パスを受けた時には前が開けている。

「もらい方を意識して一枚抜けば、あとは相手のディフェンスがひとり残っているかどうかという状態に持ち込めるので、トライにつながるチャンスは広がりますよね」

 小野澤はコーチングにも恵まれた。静岡聖光学院の監督は、早大OBの松山吾郎氏だったが、そこに帝京大でBKを指導していた細野太郎コーチ(現監督)が指導陣に加わり、日々新しい発見があった。

 そしてもうひとり、コーチがいた。父だ。
「父とはよくラグビーの話をします。それに、公園で1対1とかもやりました。父は、まだ強いですよ(笑)。よく、父のステップは誰にも真似できないということを聞きますが、それはたぶん、誰も真似をしようとしなかっただけだと思います。僕はサイズ的にも父と近いので、体の使い方やキックを蹴って裏に出るスキルとか、学べることがたくさんあります」

 なるほど、「うなぎステップ」が絶滅危惧種になっていたのは、手本にしようとする選手がいなかっただけなのか……。小野澤の考察力は、大学1年のレベルをはるかに超えていた。

 そして高校3年は、進学先を決める時期でもある。小野澤も複数の大学の練習会に参加し、その雰囲気に触れたが、父からのアドバイスも大切にした。

「父からは『大学ラグビーは、将来のつながりを生む場所だから』と言われていました。将来、どんな仕事に就くかは分かりませんが、大学でのつながりが可能性を拓いてくれるという意味では、慶應が魅力的でした」

 慶應の練習に参加したあとは、現役の学生部員が継続的に受験のサポートをしてくれた。
「4年生だった矢部耀司さんが僕のサポートについてくださって、慶応のAO入試対策だけではなく、受験全般のサポートをしてくれたのが、本当にありがたくて。慶応は『つながり』を本当に大切にするクラブなんだなということが実感できて、本当に慶応に入りたかったです」

 無事、合格通知を手にすると、受験勉強はお開き。そして花園に向けての静岡県大会では19対12で東海大静岡翔洋に勝ち、花園出場を決めた。

「高校3年の秋から冬にかけては、本当に充実していました。ラグビーって、やっぱりいいなと思いました。体が大きかったり、細かったりする人間が一緒のチームでつながって目標に向かう。花園に出るという目標も達成できましたし、つながりを大切にする慶応に入学できることもうれしかったです」

 花園では1回戦で秋田工業に勝ち、2回戦では目黒学院(東京)に敗れて、小野澤の高校ラグビーは幕を下ろした。

日本代表のトレーニングスコッドへ。

 しかし2024年からが、小野澤謙真にとっては本格的なスタートかもしれない。慶應に入学してまもなく、エディー・ジョーンズ ヘッドコーチが率いる日本代表のトレーニングスコッドに招集された。

「いきなりで、びっくりしました。なんだか飛び級で入ったような感じで。でも、受け身になっていても仕方がないので、チャレンジするつもりで参加しました。実際、大学で身につけたスキルで抜けたりすることもあったんですよ。でも、プロの方たちと一緒に時間を過ごすと、自分との違いも実感しました」

 プロ選手はケガをしたら、それが生活に響く。だから、体のケア、コンディショニング、そして練習に対する準備を怠らない。自分もより体のことを意識しなければ、と小野澤は感じたという。
 さらには、コミュニケーションの部分で、慶應に移植したい要素も発見できたと話す。

日本代表候補の菅平合宿に招集され、高いレベルも経験。試合形式の練習にも参加した。(撮影/松本かおり)

「高校生の時は、自分がボールを持ってなんとかする、という感じでした。でも、大学、それに代表レベルになると、『みんなでなんとかする』っていう感じになるんですよね。だからこそ、コミュニケーションの質を高めなければいけない」

 その片鱗が見えたのが5月12日に行われた東洋大との試合だった。
 前半、小野澤は相手のパスをインターセプトして走り切り、トライ。小野澤の個人技が光ったが、「内側とのディフェンスの連係の結果です」と冷静に話す。

「サッカーでは、組織的にプレッシャーをかけて相手に苦し紛れのパスを出させ、そこでパスカットを狙う局面があります。東洋大戦も同じ発想で、内側でセンターがプレッシャーをかけ、ロングパスを出させて、意図的にインターセプトを狙っていきました。コミュニケーションが良ければ、再現性も高まると思うので、ディフェンスラインとして狙っていきたいプレーです」

 中学までプレーしていたサッカーも、血や肉になっている様子。ラグビーをプレーし始めてまだ4年、さらに大学生になってからのこの数か月は密度の濃い時間だった。

「『基準』が見えた数か月間でした。エディーさんはみんなに『常に準備をしておいてほしい』と言っていたので、僕も緊張感をもって準備をしていきたいです。とにかく課題ばかりなので、自分は伸びると思います(笑)。大きく成長していきたいですね」

 大学1年生で、これだけ話せるアスリートは、他の競技を含めてもなかなかいない。取材も密度の濃い時間だった。
「僕、喋るのが結構好きなんで」
 慶應義塾1年、小野澤謙真。
 未来、という言葉が本当にふさわしい。

ALL ARTICLES
記事一覧はこちら