新年2日の木曜が準決勝。いよいよ決勝は同13日の月曜である。今季の大学ラグビーにおける最後の2校が最後の時を過ごす。そのあいだに最高のスクラムは完成した。
真紅、しぶとい赤黒を後退させる。帝京大学は早稲田大学の強みでもあったセットピースで優勢を保った。33-15の見事な勝利を8人の塊が支えた。
背番号16。フッカーの當眞蓮が明かした。
「準決勝のあとですかね。僕の感覚では」
3+5、いや、もしかしたら1+2+5が、はじめから「8」になった。昨年の11月3日の早稲田との対抗戦ではむしろ劣勢であった。
「僕が前へ出ようとし過ぎて、重心が前へ傾いて、そこで崩れてしまった」
17-48と大敗のあの日は先発の2番で出場していた。この見解は相手側の分析とも重なった。黒星の直後、早稲田の3番、亀山昇太郎は対抗戦でのスクラムについて誠実な口調で明かした。
「秋の帝京は僕らの組み方に対処できずに崩れた。きょうは安定感のところが桁違いに修正されていたのでパワーの差が出たかなと思います」
ロックと3列の平均体重は帝京が107・8㎏、早稲田は96・8㎏。11㎏の開きがある。簡単に述べると、ともに「8人でひとつ」をつくり上げたので、そこに後方の重さ=パワーの差が浮かんだ。
もうひとり早稲田から。控えのフッカーの安恒直人は言った。
「ヒットにフォーカスしてきたのでそこでは前に出られたんですけど、帝京のバックファイブとフロントローが固まっていたので第二波にやられました。詰めが甘かったのだと思います」
當眞蓮は決戦で先発を外れて胸中は穏やかではなかった。あらためて聞いた。メンバーの組み替えに戦略的な意図があったのですか?
「(ともにベンチに回った左プロップの)平井(半次郎)と僕のスクラムがあまりよくないという事実があったので、先に梅田(海星)と知念(優来)でいって、後半、勢いをつけるのだと」
正直だ。では告げられたときの心境は。
「すぐには納得できないんですけど、でもスクラムだけがラグビーじゃないと思うので、そこで切り替えました」
ランよし、パスよし、ポジションを超えるトータルなフットボーラーは、しかし、4連覇達成のクラブのまぎれもないフロントローだ。いわく。
「帝京大学というチームはスクラムで勝たないと勝てない。8人で押すのが帝京大学の強み。きょうは横と後ろとのコネクトが前回(の対戦)よりよくなりました。バックファイブの押しを伝えられた」
王者のサイクル! ①私たちはスクラムを押す。②押すことを前提に勝利を呼ぶ体力やスキルのレベルを抽出する。なにしろ前へ出るのだから複雑にはならない。しっかり球をつかみ、しっかり当たり、しっかり倒し、すぐに起きる。③迷わずそこのみを厳しく鍛える。
対抗戦での対戦のように前線があおられると大敗もありえた。チャンピオンでないチームなら、たとえば2ケ月強後の再戦に備えて「少々押されても白星をたぐる」道筋を探る。帝京は違う。「こんどは押す」。それしか考えない。
強引にまとめると「FWが負けたら負け」という領域には手をつけずに「FWが勝つのだから、こことここだけは完璧に」と思考を進める。わかりやすい。
ファイナルでの防御も早稲田の身上のパスワークをまんべんなく抑えるのではなく、放り手のみぞおちめがける一点貫通ヒットにかけた。放らせるな。放られた先のことなど知らん。そんな迫力。歓喜また歓喜の記憶が割り切りの担保だ。
當眞は言う。
「あれ(早稲田に完敗して)から、スクラムの質を毎日高めてきました。選手たちから『毎日組みたい』と。監督の思いも一致しました」
かくして年が明けたあとに成果は出た。
Wの蹉跌。11月の大勝はただの過去と定め、徹底的に挑戦者であろうとしても人間なので簡単ではない。「呑み込む」と「おそれる」の中間にいくらか心理はからめ取られたか。これも挑む側の関門なのである。
「帝京大学は素晴らしかった」
大田尾竜彦監督の会見での言葉である。儀礼を超えて攻防の実相を示している。早稲田もまた堅牢な防御やつないで崩し切るアタックに加え、古いファンを喜ばせる「らしい粘り」を身につけつつあった。よいチームがよいチームに負けたので「お見事」と口にできる。シーズンのおしまいにまぎれもない敗者であれた。王座奪還の跳躍のためのそれこそは足場である。
さて優れたアスリートとは誰かの息子や娘ではなく、ただ、その人だ。
でも。以下の逸話には触れたい。當眞蓮の父、豊は35年前、日本体育大学4年のフッカーとして大学選手権決勝で早稲田に敗れた。1990年1月6日。14-45。89年10月29日、2ヵ月強前の対抗戦では25-24で勝っていた。
息子に聞いた。知っていました?
「はい。僕も意識していました。決勝でスタートを外れて最初は落ち込みました。でも最後にグラウンドに立つのはリザーブ。優勝を噛みしめられるなと。父親の分もと思っていました」
コザ高校出身、沖縄県教員の立場で母校ラグビー部などを率いてきた優しくて楽しくて強い父はスタンドのどこかにいたそうだ。