logo
【南アフリカコラム】敗軍の将は兵を語る~努力に勝る天才なし。
2015年ワールドカップ、南アフリカ代表を率いていた時代のハイネケ・メイヤー ヘッドコーチ。(Getty Images)

【南アフリカコラム】敗軍の将は兵を語る~努力に勝る天才なし。

杉谷健一郎

◆悲運の名将。


 来年は2025年。ということはあの日本ラグビーの歴史を変えた“ブライトンの奇跡”から10年が経った。そう考えると光陰矢の如しとはまさにこのことで、時の流れの速さを改めて実感する。

 言わずもがな日本ラグビーの現在の興隆は、それまでワールドカップ通算1勝2分け21敗の日本代表が2度ワールドチャンピオンになっていた優勝候補スプリングボックスを34-32で競り勝ったその“ラグビー史上最大の番狂わせ”とも呼ばれる試合を起点としている。

 しかし、南アフリカでは日本での歓喜以上の悲哀が全土に満ちた。当然、“ブライトンの奇跡”は逆に南アフリカでは、“ブライトンの衝撃”であり、その栄光の歴史が一瞬で崩壊するくらいショッキングな出来事と捉えられている。
 彼らからすると負けるはずのない日本に負けたのである。特に南アフリカのラグビーファンからすると日本代表と言えば、1991年ラグビーW杯南アフリカ大会で起きた「ブルームフォンテーンの惨劇(NZ 145-17日本)」の印象を持っている人たちも多かった。

 当時、2015年のこの試合から1年経っても、南アフリカ人のほとんどはこの試合を誰とどこで何をしながら観ていたのか、誰もが明確に記憶していると言われていた。それだけこの試合が与えた影響が大きいということである。

 筆者も“ブライトンの奇跡”の後しばらくは、南アフリカでの仕事で顧客と面談した際に、こちらが日本人だと分かると、仕事の話はそっちのけで、日本の勝利を賞賛してくれたのと同時に「なぜ“あの”日本代表がスプリングボックスに勝てたのか、あなたの意見を伺いたい」と議論を吹っ掛けられ、結局仕事の話ができなかったことが多々あった。

 前置きが長くなったが、“ブライトンの奇跡”は日本ラグビーの命運を劇的に変えた。その一方で、この歴史的な一戦は同時に一人の卓越した指導者の運命にも深く影響を与えた。当時のスプリングボックスのヘッドコーチ(HC)であったハイネケ・メイヤーである。

 メイヤーについては“ブライトンの奇跡”のラスト10分の攻防時に、コーチングボックスの中で苛立ちを隠しきれない表情で戦況を見つめている姿がたびたびカメラに捉えられていたので記憶に残っている人も多いかと思う。

 メイヤーは1967年生まれの57歳。名門プレトリア大学でプレーしていたが、膝の負傷のため選手としての実績はほとんどなく、大学時代にプレイングコーチになったことがきっかけで指導者の道を歩んだ。そこから高校チームのコーチを経て、カリーカップのSWDイーグルスのHC、ストマーズのFWコーチ、そして1999年にはスプリングボックスのFWコーチに就任し、同年のワールドカップも経験した。

 2001年に低迷していたブルズのヘッドコーチに招へいされる。就任直後の2001年および2002年は主力選手の世代交代の時期と重なり、当時のスーパー12の最下位に終わる。ちなみに2002年は0勝11敗という最悪の結果になった。

 しかし、2003年からメイヤーのフィットネス重視のアプローチがチームに浸透し始め、チームは徐々に順位を上げていった。2007年にはついに決勝に進出し、南アフリカの同胞シャークスとの接戦を制し(20-19)、南アフリカのチームとして初のスーパーラグビー・チャンピオンに輝いた。メイヤーはブルズをどん底から頂点に達するまでチームを変革させたのである。

 当時のブルズはLOビクター・マットフィールドとLOベッキーズ・ボタのツイン・タワーやSHフーリー・デュプレアとSOモルネ・ステインのハーフ団、レジェンドWTBブライアン・ハバナを始めスターティング・メンバーの半数以上がスプリングボックスに選出されていた。

 そして同じ2007年のワールドカップではスプリングボックスが2度目の優勝を遂げた。もちろんこの偉業はジェイク・ホワイトHCとテクニカルアドバイザーのエディ・ジョーンズの手腕によるところであるが、これだけの“教え子”をスプリンボックスに送り込んだメイヤーの功績も大きい。

 翌年の2008年、イングランドに渡り、プレミアシップの強豪であるレスター・タイガースのHCとしてさらに経験を積む。ブルズはその後、現在、クボタスピアーズ船橋・東京ベイのHCであるフラン・ルディケが指揮官を引継ぎ、2009年、2010年とスーパー14を二連覇した。その後南アフリカのチームがスーパーラグビーで優勝することはなく、結局、優勝を果たしたのはブルズだけであった。

 2012年、メイヤーは満を持してスプリングボックスのHCに就任した。ただし、ここでも昨年のワールドカップ終了後、2期にわたり主将を務めたHOジョン・スミットを始め、自らの“教え子”であるマットフィールド、ボタ等、長らくスプリングボックスの屋台骨を支えた主力選手が代表からの引退や海外チームへの移籍を発表し、世代交代のタイミングに直面した。特にフォワードはほとんどの選手が入れ替わった。

 ザ・ラグビー・チャンピオンシップ(以下、TRC)の成績をみると2012年3位、2013年2位、2014年2位、そして2015年最下位であった。2015年はワールドカップイヤーの短縮版TRCであったが3連敗(対ワラビーズ:負20-24、対オールブラックス:負20-27、対ロス・プーマス:負25-37)という最悪のスタートとなった。特にロス・プーマスにはホーム(ダーバン)でスプリングボックス史上初の敗北を喫した。つまりスプリングボックスは2015年ワールドカップを前にかなり調子を落としていたことが伺える。

 そしてイングランドとウェールズで開催された第8回ワールドカップ初戦の日本戦、“ブライトンの奇跡”である。

 当時、サントリーサンゴリアス(現東京サントリーサンゴリアス)に在籍し、試合の後半から途中出場した、フーリー・デュプレアは試合後、「南アフリカ史上、もっとも暗い日になった」と呟いた。

 そしてメイヤーは「国民に謝罪したい。全ての責任は私にある」とコメントをした。この敗戦はメイヤーの輝かしいコーチング・キャリアで一生消すことのできない汚点を付けたのは確かだ。彼自身、試合後は失意のどん底で、ホテルの部屋に戻る際、階段を上る気力がなかったという。

 しかし、メイヤーの好感が持てる点は、言い訳を一切せず、日本の勝利と自分たちの敗北を率直に認めた上で、日本のラグビーを称賛しているところだ。その姿勢は誠実さを感じさせるだけでなく、敗北から学ぼうとする謙虚さも垣間見える。さらに、彼の自著『7 – My Notes on Leadership and Life』では、できれば思い出したくもないはずの彼のコーチング・キャリアの恥部である日本戦について、かなりの頁数を割いて振り返っている。

 選手たちは試合後のインタビューで、敗戦の理由として、スプリングボックスの強みであるモールに固執せず、日本の試合運びに合わせたことが失敗だったと指摘した。メイヤーも戦略上のミスを認めつつ、それ以上にチームはフィットネスに問題を抱えていたと自己分析している。

 メイヤーはブルズ時代から選手のフィットネスと身体の大きさにこだわることで知られていた。2015年度のスーパーラグビーが7月に終わり、42名のスプリングボックス候補をキャンプに招集した。この時点で合計16名の選手がケガで初日のフィットネステストを受けられない状態だった。

 フィットネステストはメイヤーの古巣であるブルズと同じ様式のもので実施したが、要求する基準をブルズのものより10%下げた。しかし、結果は悲惨で4名しかその基準を越えることができなかった。

 この結果にメイヤーは危機感を覚え、通常であればワールドカップに向けて負荷を落とすフィットネストレーニングをイングランドに着いてからもやらざるを得ないという状況に陥った。したがって、メイヤーは日本戦に限ったことではなく、ワールドカップに臨むに際して準備が十分ではなかったと自省している。

 メイヤーは日本戦について言及する際、アメリカの高校バスケットボールコーチ、ティム・ノタケルの有名な言葉“Hard work beats talent when talent does not work hard.”を引用した。この言葉は日本語では「努力に勝る天才なし」と意訳されることが多いが、厳密には「才能のある者が努力を怠れば、努力した者が才能を持つ者を凌駕する」と訳せる。

 メイヤーは、スプリングボックスが日本代表よりも明らかに高い能力を持ちながらも準備不足で十分に努力を重ねられなかったことを認めた。一方で、日本代表は一貫したハードワークによって勝利を掴み取ったとして、潔く敗北を認めた。

 試合後、ロッカールームに戻ったメイヤーは失意に沈むメンバーに「われわれはスプリングボックスだ。落ち込むのはここで止めよう。ワールドカップが終わったわけではない。あと6試合勝ってチャンピオンになるんだ。われわれだけが心臓の上にスプリングボックスのエンブレムを付けた人間だ。プレッシャーを力に変えられるかどうかは君たち個人にかかっている」と気持ちを切り替えて前を向くように鼓舞したという。

 スプリングボックスはその後のプールステージでは息を吹き返し、ワールドカップでは相性の悪かった次戦の相手、サモアを46-6で一蹴。スコットランドを34-16で退け、アメリカに64-0と完封勝ちで締めた。準々決勝では、その年のシックスネーションズでは得失点差で3位も、勝率は優勝チームと同じだったウェールズを23-16で撃破した。

 もともと優勝候補の一つであったスプリングボックスである。選手たちもメイヤーの言葉どおり、〝あと2試合勝ってチャンピオンになる〟ことを現実的にとらえるようになった。そして準決勝の相手は前回ワールドカップの覇者である宿敵オールブラックスだった。オールブラックスは準々決勝で、ワールドカップでたびたび苦戦した歴史のある相手、フランスを63-13と圧倒し、戦力は充実していた。

こちらはスタッド・フランセの指揮を執っていた時代。(Getty Images)


 試合はオールブラックスに先制トライを決められたものの、スプリングボックスはノートライながらも、ハンドレ・ポラードが4本のペナルティ・ゴールを決め12-7とし5点差のリードで前半を折り返す。しかし、後半はオールブラックスがゲームを支配。SOダン・カーターのドロップゴールに始まり、途中交代のボーデン・バレットのトライなどで勝負を決めた。

 司令塔のポラードが途中で負傷退場、トライゲッターのハバナがシンビンになったのもスプリングボックスを厳しい状況に追い込んだ。最終的なスコアは18-20。オールブラックスが決勝進出となった。
 2点差で辛勝したオールブラックスは決勝でワラビーズを34-17のダブルスコアで下し、ワールドカップを初めて連覇したチームになった。

 スプリングボックスはモチベーションの持って行き方が難しいと言われる3位決定戦でアルゼンチン代表ロス・プーマスと対戦した。ロス・プーマスは準決勝ではワラビーズに15-29と不覚を取ったが、準々決勝でシックスネーションズ優勝のアイルランドに43-20で圧勝していた。
 ちなみにこのワールドカップでは、準決勝に進出した4チームが南半球4か国で占められるという初めての事態となり、南北格差が明確化した大会となった。

 最終的には24-13でスプリングボックスがブロンズファイナルを制した。
 この試合では38歳のマットフィールドが主将を務めた。もともとチームの主将だったCTBジャン・デヴィリアスがサモア戦で顎を骨折し、代わったデュプレアもオールブラックス戦で顔面を強打して戦線離脱となったからである。一つの大会でこれだけ主将が交代することも珍しい。それだけチームとしての安定がなかったともいえる。

 メイヤーは試合後のインタビューで「3位で満足するようであればスプリングボックスのコーチをやるべきではない」と語り、もっと上を目指したいということで、スプリングボックスのコーチ職の継続を希望した。
 しかし、ユニオンの中の多くの人がメイヤーの契約延長に反対した。プレースタイルへの不満と、非白人選手の選出に協力的ではなかったというのが主な反対理由だった。そして、常に優勝を求められるスプリングボックスである。3位、そして日本に負けたという結果は国内のラグビー関係者には受け入れられなかった。メイヤーは2015年12月にスプリングボックスのHCを辞任した。

 メイヤーは最後に、このチームで主力の半分を占めた若手はまだ20代前半で今後も成長が期待できることから、「これから4年間で彼らはまったく別のチームになるだろう」という期待の言葉を残しチームを去った。

◆再出発。


 前述のポラードに加え、PRフランス・マルハーバー、PRトレヴァー・ニャカネ、LOエベン・エツベス、LOルード ・デヤハー、FLシヤ・コリシ、FLピーターステフ・デュトイ、NO8ドウェイン・フェルミューレン、CTBダミアン・デアレンデ、CTBジェシー・クリエル、FBウィリー・ルルーなどは2019年、2024年のワールドカップ連覇に貢献し、今なおスプリングボックスで主力として活躍しているプレイヤーたちである。実は彼らは皆、メイヤーが代表に引き上げた選手たちである。

確かにメイヤーは“ブライトンの衝撃”で南アフリカ全土を揺るがした。しかし、スーパーラグビーで初めて南アフリカに優勝トロフィーをもたらした功績、そして、チームの核となる選手たちを発掘し、現在に至るまでのスプリングボックスの興隆の土台を築いた実績を高く評価するコアなファンや関係者がいることも事実だ。

今回、なぜ急にメイヤーの話を持ち出したかというと、10年の“禊(みそぎ)”を終えてメイヤーが再び南アフリカに戻ってくる動きがあるからだ。

メイヤーはこの10年間、職場に恵まれていたとは言えない。
2015年にスプリングボックスのHCを辞任した後は、2016年に本人曰く、「欧州の有名チームからのオファーを断って」シンガポールを拠点とするアジア・パシフィック・ドラゴンズのコーチを務め、その後、チームの親会社のマネージング・ディレクターに就任した。

 しかし現場に戻りたかったようで、2018年にフランスTOP14のスタッド・フランセ・パリのHCの職を得た。初年度のシーズンは8位とまずまずの成績だったが、2019年は9試合経過した時点で2勝の最下位になり、その責任を取ってシーズン途中に辞任した。実質は解雇であった。

 メイヤーは2020年にスポーツイベント会社『Invictus Sport and Entertainment』を設立した後、2021年からアメリカに渡り、メジャー・リーグ・ラグビー(MLR)のヒューストン・セイバーキャッツのディレクター・オブ・ラグビーを3シーズンにわたり務めた。メイヤーは彼をブルズ時代にアシスタントコーチとして支えたポート・ヒューマン(元ブルズHC)をヘッドコーチ(HC)に迎え、自身の息子ヴィック・メイヤーをアタックコーチに任命するなど、メイヤーのやり方を理解し、気の許せるコーチ陣を擁し、セイバーキャッツを指導した。

 メイヤーの就任前、セイバーキャッツはMLRのウェスタン・カンフェレンスの最下位を彷徨っていた。この状況はメイヤーがブルズのHCに就任した時と同じで、自分の特性は低迷しているチームが持つ潜在性を引き出すことと公言している。
 そして、彼がいた3年間、チームは同カンフェレンスで3位(2022年)、3位(2023年)、そして最終年の今年はついに1位まで上り詰めた。セイバーキャッツには、他のチームのように世界的なビッグネームを呼び寄せるだけの財力はない。そのような状況下で、メイヤーは与えられた素材を最大限に活かし、それぞれの選手の潜在能力を引き出すことでチームを強化し、セイバーキャッツをプレーオフ進出の常連チームへと変成させた。

 ただし、かつてスプリングボックスのHCを務めたメイヤーが、新興のMLRの一チームのディレクターとして活動していたことに対し、「都落ち」と感じる人は少なくないだろう。アメリカでの3年間についてメイヤーは、「アメリカではゼロからのスタートだったが、才能があり、学ぶ意欲が高いアメリカ人を指導したことを本当に楽しんだ。」と振り返っている。

 メイヤーはセイバーキャッツとの契約延長をせずに、取りあえず南アフリカへ戻ることを希望している。ただ彼のコメントでは「自分が付加価値を生み出せるクラブがよい」としている。

『ブライトンの衝撃』の贖罪は十分に果たした。南アフリカラグビー界もメイヤーのような有能な指導者をこのまま蛇の生殺し状態のままにしておいてよいのだろうか?
 そろそろ彼に許しを与えて、再びハイレベルの舞台へ戻す時期なのでは。

 ただメイヤーが「自分が付加価値を生み出せるクラブ」を希望しているのであれば、すでにザ・ユナイテッドチャンピオンシップでは常に上位を争い、完成度の高い南アフリカのチームではなく、日本のリーグワンの方が彼にとってやりがいのある挑戦となるのではないかと考える。

 しかし、果たして本人が“あの”日本のリーグワンに身を置くことを選ぶだろうか…。それはまた別の問題かもしれない。

【プロフィール】
杉谷健一郎/すぎや・けんいちろう
1967年、大阪府生まれ。コンサルタントとして世界50か国以上でプロジェクト・マネジメントに従事する。高校より本格的にラグビーを始め、大学、社会人リーグまで続けた。オーストラリアとイングランドのクラブチームでの競技経験もあり、海外ラグビーには深い知見がある。英国インペリアルカレッジロンドン大学院経営学修士(MBA)修了。英国ロンドン大学院アジア・アフリカ研究所開発学修士課程修了

ALL ARTICLES
記事一覧はこちら