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ラグビーとユーミン。
100回目の早明戦。当日の明治大学の選手たち。(筆者撮影)

ラグビーとユーミン。

渡邊隆

 12月第一日曜日、国立競技場、百回目の早明戦。選ばれし30人の雄姿が、大観衆の声援を受けてグランドを駆けていた。早明戦で4万人を超えたのは11年ぶりである。
 
 僕は誰もいない最上階の摺鉢のような淵から、青白と赤黒の入り混じるスタンドに囲まれた、選手たちがいるグランドを眺めていた。
 大きな、空に描いたラグビーボールのような青い窓から注ぐ陽射しは、カラフルな客席と、緑の芝を刻々と染め上げ、その位置を変えていった。まるで生き物のように。
 それは、地球が動く悠久の日時計のように美しかった。
 日陰になると、そこは、まるで月の裏側にいるような、暗く寒い別世界に、スタンドは凍えていた。

 ゲームは最後まで競った試合になり、明大2年生海老澤のライン際快走を、早大1年生の服部と田中が捨て身で阻止した最後のシーンは、スタンド全体が一瞬で総立ちになった。地割れを起こしたような歓声が、下から突き上げる。4万人が一斉に引き起こす地響きを、全身に感じていた。
 こんなに熱狂した歓声を聞くのは何年ぶりだろう。
この瞬間はテレビでは決して味わえない、生のスポーツ観戦の醍醐味である。

 そして、ゲームが終わり、観客が去って行き、グランドはラグビーのポールが倒され、芝のグランドも、それぞれの人たちが役割りを持って、整然とサッカー仕様に変えられていく中、グランドでは、ユーミンの「ノーサイド」が、延々と流れ続けたのである。

「彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い
深く吸った
長いリーグ戦 しめくくるキックは
ゴールをそれた
肩を落として 土をはらった
ゆるやかな 冬の日の黄昏に
彼はもう二度と かぐことのない風
深く吸った

何をゴールに決めて
何を犠牲にしたの 誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く
走ろうとしていた あなたを
少しでもわかりたいから
人々がみんな
立ち去っても 私ここにいるわ

同じゼッケン 誰かがつけて
また次のシーズンを かけてゆく
人々がみんな
あなたを忘れても ここにいるわ」

 女神の歌声が天から降り注ぐとは、このことなんだ。古代の物語りが蘇ったような錯覚を覚えた。オレンジ色の太陽が刻々と沈んでゆく夕暮れに、国立で聞くノーサイドはまた格別だった。
 その場に居て、ユーミンの歌声に、ずっと抱かれていたかった。

 11年前は、旧国立最後の日、ラストゲームが早明戦だった。
 その日は試合後、生ユーミンがグランドに舞い降りて来て、日本中のラグビーマンに、このような泣けるメッセージを残してくれた。

「ここにいる選手の皆さん、そして、全てのラグビーOBの皆さんが、必ずくぐってこられた、厳しい練習の日々への、オマージュを捧げます」

 そして、「ノーサイド・夏〜空耳のホイッスル」の一節を朗読した。

「高原の太陽はプリズム
奪い合い空翔けるボールは
埃の中の日食
少年は苦しさと向き合う
ほとばしる水道の飛沫に
燃える魂を打たせて
遥かな勝利

どれだけ自分を痛めればとどく
答えを知らず ただ走り抜け
少年は戦士になる

いつの日か老人は佇む
遠い日の仲間の呼ぶ声と
空耳のあのホイッスル

静かな自由
どれだけ相手を倒したらわかる
はかない夏が過ぎてゆく頃
少年は戦士になる」

 他のスポーツでは、このような哀愁漂う、エモーショナルな歌にはならないだろう。
 ラグビーの不思議さ、あれだけ勇猛なスポーツなのに、お互いの身体をぶつけ合い、命を懸けて戦った相手でも、ノーサイドの笛と同時に戦闘モードは熔けて、友情へと繋がる。

 勝っても泣き、負けても泣くけれど、

 ユーミンが何故、ラグビーの歌を作ってくれたのかは、わからない。
 ユーミンが、ラグビーの試合や、高原での夏合宿を見に来たのかも、わからない。
 でも、ユーミンがラグビーの背景を深く理解し、ラグビーの全てをつつみこむ愛を、こんな素敵な詩にしてくれたことが、
ラグビーの哲学と、ユーミンの感性が、
どこかで触れあえたことが、嬉しい。

【プロフィール】
渡邊 隆/わたなべ・たかし
1981年度 早大4年/FL。1957年6月14日、福島県生まれ。安達高→早大。171㌢、76㌔(大学4年時)。中学相撲全国大会で準優勝。高校時代は陸上部だった。2浪して早大に入学後、ラグビーを始める。大西鐵之祐監督の目に止まり、4年時、レギュラーに。1982年全早稲田英仏遠征メンバー。現在は株式会社糀屋(空の庭)CEO。愛称「ドス」

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