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ラグビーの、いや、ラグビー必勝のおおむねの道理だ。キック。長いキック。長い長いキック。早稲田大学の話題の新人、服部亮太の帝京大学戦でのモンスター・キック、この場合はGやPGでなく、タッチラインの外へのクリアランスや高い軌道に限らぬ広い意味でのパントを目にして、つくづくそう確かめられた。
48-17の白星。開始9分45秒、Pを得て自陣15m中央から敵陣右22m線まで蹴り出した。観客のどよめきは良好な滑り出しを告げる号砲であった。同15分15秒には、ふたつの22m線をほぼ結ぶクリアで仲間の心身を楽にさせる。
こんな足を持つ者はまれと承知で、なお、「この手があったか」と思い出させた。あれだけの怪物的飛距離は赤黒びいきのみならず、きっと中立のファンも胸をときめかせたはずだ。「理屈抜きの特大」とはスポーツ観戦の醍醐味なのである。
試合後。ブレザー姿の本人を取材陣が囲んだ。ひとつ大切な言葉があった。いつからキックは飛ぶようになったのか。
「高校2年のころに、毎日、ずっとグラウンドで練習をしていて」
夢中+才能=成功。単純なのに実行は簡単ではない。かくして高校の先輩でもある語り草のキッカー、五郎丸歩のごとき「特大」を自分のものにしつつある。
冒頭のラグビー必勝法。ざっと35年前。広告代理店勤務の大学ラグビー部の後輩が、会社の有志で楽しむクラブチームにおける勝利の方程式を語った。
いわく。「キック。ロングキック。ひたすらコーナーめがけてタッチキック」。そのココロは。「クラブチームは練習時間がないのでラインアウト近辺でミスをする。するとスクラムになる。そこで、こちらもまた短い時間ながら、ひとつ、ふたつとそれだけは練習しておいたサインプレーでトライする。さらにキック、またキック」。
演説は確信に満ちていた。大衆酒場のテーブルが国連の議場のようだった。でも疑問もなくはない。連日の勤めをこなしてのせっかくの休日、蹴ってばかりでは楽しくないのでは? 「いやいやいや。勝ったら、みんな楽しいですよ。ビールもうまい」。その男はのちに会社でけっこうえらくなったらしい。
大昔の草の根クラブと現在の早稲田は異なる。ましてリーグワンやジャパンとは次元が大違いだ。それでもラグビーはラグビーである。ボールを手にどこまでも走ってよい競技だからこそゴールラインに近づけば、よいことだらけだ。
さあ唱和しませんか。敵陣! テキジン! ハットリ、蹴っとけ!
これ、服部亮太の先達、かつて時代を築いたころの早稲田のラグビー部の不滅の呪文である。『早稲田ラグビー史の研究』(日比野弘編著)を引けば、1965年度から74年度までの勝率は93.1%(109勝2分8敗)。日本選手権での社会人覇者との6戦(3勝3敗)を除く対学生なら96.4%にも達した。
本稿の筆者は幼いころに父に連れられて、よくその公式戦を見た。監督やコーチの席(あのころはメイン前方の一般席)から「敵陣、テキジン」の声がしきりに飛んだのを覚えている。自分が後年に同じ大学のコーチになって同じように叫ぶと、一瞬、幼少の記憶が重なって少し照れた。
早稲田は高速展開と思われていた。もちろん、ここというところでは素早く球を散らして理詰めでスペースをついた。しかし実態は「敵陣信奉」である。
黄金期の後半のおもな戦法である「拠点集中攻撃」もスクラム起点の右ショートサイドへのキックを出発点とした。相手WTBが前に構えたら後方へパント。そこを警戒すれば9-14とパス。相手FBがキックに備えて右に寄ると、オープン側に展開して左奥へ蹴り込む。
先手でキック。防御が動くと逆をとる。簡潔で効果的だった。歴代の10番はみな巧みにパントを操った。ただし皮革ボールの時代、専門トレーニングも開発されておらず、モンスター級の飛距離はなかなか実現しなかった。
存命なら108歳、元日本代表監督の大西鐵之祐さんは早稲田の理論的支柱でもあった。晩年、追い求めたのは「70mキック」である。長身の10番の60m超級で敵陣深く侵入、こんどはそのSOの長い手足をいかし、ハーフからひとつのパスでゲインを切って、いまのオフロードのようにつなぎインゴールへ。それを軽量無名選手も少なくないチームにとって美酒への最短コースと定めていた。
2024年秋。服部亮太、大学シーンへ出現。大西さんも雲の上で喜んだろう。いえ、浮かれるより先に頭をぐるぐる働かせて、逸材の能力をいかにスコアへと結ぶかを考え抜く。
もはや「早稲田のどでかいキック」の効き目は明らかで、では帝京を筆頭に他校がいかに封じ、あるいは自陣深くのキャッチからの独創的アタックにつなげるのか。学習および創造の闘争。大学ラグビーのそこが真価である。