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ラグビーは15人で行なわれる競技です。でも、このごろは、すぐ14人になる。ときには13人にも。カード、またカード。
昨夏、7月22日の札幌ドーム。ジャパンはサモアとぶつかった。札幌山の手高校出身のリーチ マイケルにとって待ちに待った「凱旋テストマッチ」。前日、リーチ本人は「ずっと楽しみにしてきた。やっと試合ができる。明日は全道から(高校の)ラグビー部がきてくれる」と話した。
ところが開始30分。スタジアムが両手を広げて抱きしめる主役にレッドカードは突き出された。高い位置へのタックル。全道より集う高校生たちは「人生とはままならぬ」と期せずして学んだ。ジャパンは負けた。
本年はジョージア戦の下川甲嗣が退場となった。前半20分に球の争奪局面で相手をねじり上げて引きはがす「クロコダイルロール」をペナライズされる。イエローは赤へと「格上げ」になった。
なんだか学校の優等生が珍しく先生に叱られた感じ。14人の桜のジャージィは接戦を落とした。敗北の芝の上、リーダーが車座になって話し合う。実況席のイヤフォンにマイクの拾った音がかすかに届いた。
「カンジをサポートしよう」。リーチの声だった。
と、稿を始めて、確かに15人対15人のゲームを見たいと常に願う立場なのだが、やはり記さねばならぬ。選手の健康な人生を守るために危険なプレーを厳重に取り締まる。ここのところに反論はないと。
国際統括機関のワールドラグビーは10月8日、先のパシフィックネーションズカップなどで採用された試験的ルールを肯定的に評価した。レッドカードの対象者を20分後にベンチの控えと交代させる規則も含まれる。
「個を罰せよ。ゲームを罰するな」の流れだろう。反射的に肯定しそうになる。しかし、頭部へのダメージとそれを放置してきた過去への批判、そのことについての具体的な訴訟を抱えるという観点、さらには危険なプレーの横行につながるとの危惧から各方面に反対の声はやまない。フランスは異議を表明している。
本コラムの意見はこうだ。悪意はなく、されど危険なタックルまでは、いわゆる「20分ルール」を適用する。しかし、身動きのできぬ者に暴行を働いたり、レフェリーにここに示せぬような言葉で悪態をついたりしたら、たとえば白地に黒の×印のカードをポケットから出して「退場かつ交代を許さず」と宣告する。
ラグビー界には存在せぬと信じたいが、ひとときサッカー選手に目立った「ダイブ」(ペナルティー狙いの虚偽の横転)に対して「ピンクのカードを」というイングランドの元プロ選手の提言があり、ヒントを得た。ピンクには「間抜け」の意味がこめられている。あの色彩を愛する善良な人々(筆者もひとり)の異論はともかく、恥を知れ、というわけだ。
タックルの高さのわずかなずれと暴力が同色のカードにくくられ、しかも頻繁に繰り出されると、だんだん悪徳への感受性が鈍くなる。
退場処分、英語では「Sent Off」で思い出すのが、ニュージーランドの伝説のロック、コリン・ミーズのケースである。
1967年12月2日。オールブラックスは敵地のマレーフィールドでスコットランドと対戦した。後半31分。スコットランドのSОがラックをこぼれるボールを渡すまいと身を寄せる。前へ出たミーズは蹴った。ボールを。いや、この午後は白のジャージィをまとう10番のボディーを。
アイルランド人のレフェリー、ケヴィン・ケラハーは退場を命じた。「ただボールを蹴ろうとしただけ」との弁解は退けられる。
背景がある。前半にやはりラックでのラフな動きを警告していた事実。そして文化の衝突。北半球では地面のボールに身を挺する行為を勇敢と考え、南半球、ことにニュージーランドでは非道とくくられた。
オールブラックスの一員のセントオフは2例目、1925年、トゥイッケナムでの対イングランド、ロックのシリル・ブラウンリー以来である。まれなる不祥事の反響は大きかった。
コリン・ミーズの評伝『COLIN MEADS ALL BLACK』の99ページに心境が綴られている。
「おしまいだ(That’s the end)」「すべては終わった(That’s finished everything)」
当時は「恥辱」とされた。
実はミーズの次にオールブラックスで退場となるのは半世紀後の2017年、SBWことソニー・ビル・ウィリアムズである。7月1日のブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズ戦の前半24分、イングランドのアンソニー・ワトソンへの「ハイタックル」で芝の上を去った。
後日、4週間の出場停止処分を科せられた直後、SBWはコメントを残した。一部にこうある。
「もちろん本当にがっかりだ(Obviously really disappointed)」(ロイター)
1967年の「この世の終わり」は50年後には「わたしの落胆」へ転換された。そこから7年が過ぎて、こんどは「赤札だって20分」となる方向だ。
カードをむやみに切るな。頭部への衝撃を排除せよ。さて均衡はどのあたりか。みんな悩む。いまのところ「ラグビー性善説(この競技を選んだ人間なら放っておいても悪事は働かぬ)」はかろうじて命脈を保っている。そうした前提があればこそ結論をめぐり意見の分かれる余地も残される。
であるなら「レフェリーを敬う」や「死闘を演じて、なお敵は敵でなし」の文化を守り抜くのが協会、現場指導者、ファン、もちろん全カテゴリーのプレーヤーの務めだ。
ここまでキーボードを打って、はるか昔のシーンの輪郭がだんだん濃くなった。1987年の忘れがたき一幕。
ブリスベンでのワールドカップ準決勝。後半30分過ぎ、オールブラックスに大差をつけられたウェールズの5番、ヒュー・リチャーズは割って入ったモールの内部で、黒衣の同じ背番号のギャリー・ウェットンによる小刻みな肘撃ちを浴びた。背にまとわりつく相手をどけるためだ。
真紅のロックは報復に踏み切った。突然、殴りかかる。かすると当たるの中間くらい。すると横から黒の8番、ウェイン・シェルフォードがこちらは会心のパンチをリチャーズに当てた。そのまま失神。緑の芝に伸びた。
ウェールズのフィジオが、家庭のキッチンで皿を洗うような簡素なスポンジを水に濡らして、ほおをぬぐうと、軽く殴って、ひどく殴られた男はよれよれと起き上がった。オーストラリアのレフェリー、ケリー・フィッツジェラルドは厳かに「オフ」と告げる。
みずからが被害をこうむったわけでないのにKОの一撃を放ったマオリのタフガイ、シェルフォードはなぜか無罪であった。
現場で取材しながら、あわれなウェールズ人を思った。同情できぬのに同情したい。新聞社の速記係に国際電話で吹き込んだ記事に書いた。
「踏んだり蹴ったり」
悲喜劇の24年後、本職は羊飼いのヒュー・リチャーズは語っている。
「われわれはハードに戦っていたんだ。ピッチの上で物事を解決することに問題はなかった。それもラグビーの一部だったんだよ」(テレグラフ紙)
もはや拳の応酬で事態を収める方法は認められない。よい子がまねするのもよしたほうがよい。ただ、そんな時代は確かにあった。無防備なファイトは不思議と汚くはなかった。