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【南アフリカコラム】南半球王者、返り咲き。
地元で歓喜の瞬間を迎えた。(Getty Images)

【南アフリカコラム】南半球王者、返り咲き。

杉谷健一郎

◆アルゼンチンとの特別な関係

 今年のザ・ラグビーチャンピオンシップ(TRC)の優勝カップは、最終週まで、スプリングボックスとアルゼンチン代表、ロス・プーマスの間で争われた。

 両国のテストマッチが“正式”に始まったのは、南アフリカの国際ラグビー復帰後の1993年なので、その歴史は比較的浅い。

 しかし、アルゼンチンラグビー協会(UAR)はアパルトヘイトに対する制裁で世界中が南アフリカとのスポーツ交流をボイコットしていた1980年、82年そして84年に、ロス・プーマスとしてではなく、チリ、ウルグアイ、パラグアイ、そしてブラジルなどの選手を含めた南米フィフティーン(※Sudamérica XV、ニックネームはジャガーズ)という合同チームを作り南アフリカへ遠征させた。

 ただこのジャガーズはロス・プーマスをカモフラージュするために作られた見せかけの合同チームであり、試合出場メンバーは当時のロス・プーマスの選手たちで占められた。

 すべての遠征でジャガーズのキャプテンを務めたのはアルゼンチンのレジェンド、SOウーゴ・ポルタ。ジャガーズは合計8回スプリングとテストマッチ(※南アフリカではこのジャガーズとの試合はキャップ対象となっている)を行い、1982年に1度だけ21-12で勝利したが、ポルタはこの試合の全得点を挙げている。

 ポルタは引退後、1991年に駐南アフリカ・アルゼンチン大使、その後1994年にはアルゼンチンのスポーツ省大臣に任命された。

 しかし、誰が見てもジャガーズはロス・プーマスの偽装であり、世界中から非難を浴び、またアルゼンチン政府とUARの関係も悪化した。ただUARもそうなることは予想済みだったが、それでもジャガーズを南アフリカへ遠征させた理由がある。南アフリカラグビーとの特別な関係である。

 アルゼンチンでラグビーが初めて行われたのは1873年とされている。仕事で同国に駐在していたイギリス人がブエノスアイレスで始めた。したがって、ラグビーをアルゼンチンに持ち込んだのはイギリス人だ。

 しかし、アルゼンチンでラグビーが発展したのは南アフリカ人の影響が大きい。イギリスが「生みの親」であれば、南アフリカが「育ての親」といえるかもしれない。

 19世紀末から第一次世界大戦まで、アルゼンチン経済は栄華を極めた。世界大戦とはいえ主戦場はヨーロッパで、南米に位置し戦禍を免れたアルゼンチンは農牧産品を主にヨーロッパへ輸出することで莫大な利益を得ることができた。当時のアルゼンチンの1人当り実質GDPは西欧諸国の平均を上回っており、世界有数の経済大国だった。

 そして富のあるところには人が集まる。当時のアルゼンチンにはよい暮らしを求めて世界中から移民が押し寄せた。そして1902年から南アフリカよりアルゼンチンへの移民が開始された。

 その移民の中の一人が第5代スプリングボックス主将を務めたバリー・ハートリーなる人物である。ハートリーは1891年から1903年まで現在のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズの原型であるブリティッシュ・アイルズとの対戦で代表6キャップを得ている。192㎝、94㎏で、当時の南アフリカでは巨漢の部類に入り、FWであればすべてのポジションをこなした。ゴールキックを蹴っていたという記録もあり黎明期のスプリングボックスをけん引していた人物であった。

 ハートリーは自身の金銭問題もあり、1905年にアルゼンチンへ移民した。ブエノスアイレス近郊の砂糖農園に職を得た一方、今日まで現存するClub de Gimnasia y EsgrimaやLomas RFCという2大クラブにおいて選手兼コーチとして活躍した。

 また1910年には初めてアルゼンチンに遠征してきたブリティッシュ・アイルズとのテストマッチにはアルゼンチン代表として出場した。ハートリーはその後、20年間ブエノスアイレスに留まり、黎明期のアルゼンチンラグビーの発展に寄与した。

 ハートリーのあとも南アフリカとアルゼンチンの交流は続く。当時は両国の実力格差が大きかったためテストマッチにはならなかったが、1932年、そして1959年には若手主体のジュニア・スプリングボックスがアルゼンチンに遠征した。そして、1965年にはアルゼンチン代表の遠征を南アフリカが受け入れた。

 余談だが、アルゼンチン代表の愛称である「ロス・プーマス」はこの1965年の遠征時、南アフリカの新聞社の記者がエンブレムについていたジャガーを間違えてプーマと書いたところから始まっている。ただアルゼンチン側もこのネーミングが気に入ったのか訂正することはなく今に至るまで残ることとなる。

 ただし、UARの紋章やロス・プーマスのエンブレムに使われ続けてきたジャガーは2023年に正式にプーマに変更された(※ジャガーもプーマも共に哺乳網食肉目ネコ科に属するが、ジャガーには体全体に黒い斑紋があり、プーマにはない)。

 さらにアルゼンチンラグビーの分岐点となったのは、1965年、当時のナタール州代表チーム(※現在のシャークスにつながる)の有能なコーチであったアイザック・ヴァン・ヘルデをロス・プーマスのコーチとして招へいしたことである。

 ヴァン・ヘルデは本国スプリングボックスのコーチこそならなかったが、革新的な指導で知られ、彼の著書である“Tactical and Attacking Rugby”は当時、世界中のコーチのバイブルとなった。

 ヴァン・ヘルデはロス・プーマスの指導のためスペイン語を習得し、最終的にはそれまでロス・プーマスが大差で敗れたジュニア・スプリングボックスを敵地のエリスパークで勝利するまでチームを成長させた。

 ヴァン・ヘルデの功績は現在のティア1にまで上り詰めたロス・プーマスの基礎を築いたとしてアルゼンチンでは高く評価されている。現在もロス・プーマスの選手たちはダーバン(※現在のクワズナタール州の主要都市)で試合がある際は、ヴァン・ヘルデが亡くなる寸前まで教鞭をとっていたダーバン・ハイスクールを表敬訪問している。

第5代スプリングボックス主将を務めたバリー・ハートリー(左)と、アイザック・ヴァン・ヘルデの著書『Tactical and Attacking Rugby』

 そして、その後も南アフリカとアルゼンチンの関係は続く。南アフリカではユナイテッド・ラグビーチャンピオンシップ、カリー・カップに次ぐ第3の存在であり、若手選手の鍛錬の場になっていた「ボーダコム・カップ(※2015年に終了)」に、UARは不定期ではあるがパンパスXV(※ロス・プーマスの3軍に相当)というやはり若手主体の代表チームを参加させていた。
 2011年にはパンパスXVがボーダコム・カップの優勝を飾っている。

 ウルグアイやチリも成長を続けているが、アルゼンチンの競争相手になるレベルではない。南米大陸ではアルゼンチンは孤立した存在である。したがってアルゼンチンは大西洋を挟んだ隣国に真剣勝負ができる相手を、そしてレベルアップができる場所を求めた。

 しかし、2000年代に入り、ロス・プーマスのレベルも向上し、スプリングボックスと競った試合が増えた。2012年のTRCではついに16-16のドロー、そして2015年にはヴァン・ヘルデが眠るダーバンで37-25と初勝利を挙げる。

 当然、この時期にはロス・プーマスが将来的にスプリングボックスの脅威になり得る存在になることは予想ができた。しかし、長きにわたる“師弟関係”があったとはいえ、そのライバルチームの予備軍に胸を貸す南アフリカラグビーも懐が深い。

 そして、今回のTRCではそのロス・プーマスがスプリングボックスと優勝を争うところまで上り詰めた。
 さて、2つのテストマッチをおさらいしておこう。

◆ロス・プーマスの勢いに屈す。


 今回のTRCは第5及び第6節のみがホーム&アウェイでの対戦となる。初戦はアルゼンチンの北部、サンティアゴ・デル・エステロ市にあるエスタディオ・ウニコ・マドレ・デ・シウダデスで行われた。

 スプリングボックスは次週にホーム、ネルスプロイトで行われる第2戦に備えてチームを2つに分けた。FLピーターステフ・デュトイやWTBチェスリン・コルビなど連戦が続いていた6人の主力選手はアルゼンチン遠征には参加せずホームで待機となった。FLシヤ・コリシも遠征には帯同したがメンバー外で、キャプテンはワラビーズ第2戦目以来のLOサルマーン・モーラットが務めた。

 試合は前半4分にFBアフェレレ・ファシが、8分にCTBジェシー・クリエルがロス・プーマスのディフェンス網の穴をつきトライ。13分にはSOハンドレ・ポラードがPGを決め、17-0と点差が開いた。

 スクラムも優勢であったことから、スプリングボックスがこのまま点数を重ねていくかと思われたが、そのPGの2分後、昨年のワールドカップの日本戦ではハットトリックを決めたロス・プーマスのスピードスターWTBマテオ・カレーラスのトライで流れが変わった。

 タイミングが悪いことにその直後、WTBカート=リー・アレンゼがヘッドコンタクトでイエローカードとなる。ロス・プーマスはこの好機を逃さず、アレンゼが10分退場している間に2トライを奪い、17-19と逆転。その後、両チームとも1トライを加え、前半は22-26でロス・プーマスのリードで終える。

 後半は両チームとも一進一退でゴールを割ることはできなかった。ポラードが後半4分、そしてポランドに代わり途中出場したSOマニー・リボックが11分にPGを決め、28-26と再びリードを取り戻した。

 リボックは今回のウィンドウマウスではポルトガル戦で先発、ワラビーズ戦で途中出場している。リボックもSOにはサーシャ・ファインバーグ・ムゴメズルなどの若手が台頭してきており、得意のキックパスを決めて首脳陣にアピールしたいところだろう。

 その後、ロス・プーマスが29分にPGを決め、28-29と再び逆転に成功する。そして39分、スプリングボックスはゴールから約40mの位置でPGを得るが、リボックは外してしまい、そのままノーサイドとなった。

 リボックは好調ストマーズのプレイメーカーであり、フライハーフ(SO)としての評価は高く、決してキックの下手な選手ではない。しかし、フランスでのワールドカップでも肝心なところでゴールを外してしまい、ゴールキックに関しては不安定という印象を持たれている。

 ラッシー・エラスムスHCもリボックを気遣い、試合後のインタビューでは「マニー(リボック)を責めるべきではない」と訴え、「あのような(=PGで逆転が決まるような)状況に持っていったこと自体が問題だった」とし、「今日はロス・プーマスが我々よりも良いプレーをした」と敗北を認めた。

 しかし、南アフリカの熱狂的なファンはスプリングボックスの敗戦につながるミスは許さない。案の定、試合後のSNSではリボックを非難するコメントが飛び交った。

 スプリングボックスのTRCの優勝は次週に持ち越し、そしてこの敗戦によりワールドラグビー・ランキング1位の座をアイルランドに譲ることになった。

 また後半8分に途中出場したLOエベン・エツベスは代表キャップ数が127となり、歴代最多のレジェンドLOビクター・マットフィールドと並んだ。

 そしてロス・プーマスはチーム史上初めてTRCにおいて3つの南半球強豪国から勝ち点を得た。対スプリングボックスとしては8連敗を止めることができた。ただし今回のTRCではすでに2敗、スプリングボックスとは5ポイントの差がついているため、ロス・プーマスが不利な状況ではあるが優勝の可能性は残っていた。

最終戦に出場し、ファンを熱狂させたシヤ・コリシ主将。(Getty Images)

◆15年ぶりの歓喜。


 ネルスプロイトでは南アフリカの北東部に位置し、モザンビークとの国境にも近い。また日本での知名度は低いが、有名なクルーガー国立公園に行く場合は拠点となる街である。現在はムボンベラに改称されたが、特に白人間では現在でもネルスプロイトと呼ばれている。

 ネルスプロイト周辺は1890年代よりアフリカーナーの農業入植者が多く入ったため、現在でも白人人口が全体の半分を占める。ラグビーどころであり、ドウェイン・フェルミューレン、ファフ・デクラークの出身地である。

 地元チームにはピューマス(※南アフリカラグビーを構成する14あるラグビー地域協会の1つであるムプマランガ州協会の代表チーム)がある。一時期は資金力が脆弱ということもありカリー・カップでもプレミア・ディビジョン(1部)とファースト・ディビジョン(2部)の昇格と降格を繰り返している状態であったが、最近は強化が進み、2022年にカリー・カップを優勝した。
 しかし、やはり前述の二人のように才能ある選手は主要4フランチャイズ(※ブルズ、ライオンズ、シャークス、ストマーズ)から引き抜かれるケースが多い。

 会場となるムボンベラ・スタジアムはもともと2010年FIFAワールドカップのために新設された比較的新しいスタジアムだ。したがって、ここでは過去に4戦しかラグビーのテストマッチは行われていない。スプリングボックスは、そのすべてに勝利してきた。縁起の良いスタジアムといえる。

 南アフリカの中でもラグビー熱が高い地域であり、観客の応援も凄まじいものがある。このテストマッチも4万3578人の観客が入り、SOLD OUTだったということだ。

 スプリングボックスとしては優勝の舞台が整ったということで、絶対に負けられない。2019年にTRCを制しているが、ワールドカップ年のTRCは短縮バージョンであり、フルトーナメントの優勝は2009年以来となる。

 スプリングボックスの先発メンバーは予定どおり先週の第1戦に出場しなかったキャプテンのFLコリシを始め、FLデュトイ、CTBダミアン・デアレンデ、WTBコルビなどのワールドカップ優勝メンバーが戻った。

 そしてこの試合で代表キャップ128となりスプリングボックス歴代最多キャップ数となるエツベスも「4番」での出場となった。エツベスは試合終了後、これまでの最多キャップ記録127を持っていた、かつての盟友で何度もロックのコンビを組んだマットフィールドから128個目のキャップを受け取った。

 エラスムスHCは、第テストの勝負を決めるPKを外したSOリボックをあえて先発のフライハーフに指名した。プレースキックには難があるが、その他のプレーでは高く評価されている才能を潰したくはない、復活の機会を与えたい、という親心なのだと察する。
 第1戦後、リボックには非難が集中した。気を遣って欠場させたなら、彼自身がスプリングボックスとしての自信を失っていたかもしれない。

 ただ第2戦では、コンバージョンキックやPGはハーフ団を組んだSHジェイデン・ヘンドリクセが任された。ポラードが途中で出てくるまでは、コルビも控えのキッカーとして準備をしていた。

 試合は48-7(※トライ数7-1)でスプリングボックスの圧勝だった。お互い第1戦とは別のチームになっていた。ロス・プーマスもケガ人等で先発メンバーが7名入れ替わった。ただ入れ替えということではスプリングボックスは10名も交代している。やはり選手層の厚さの違いだろう。

 気合十分のスプリングボックスにすべての面において押され気味で、劣勢になると反則が多くなるラテン系特有の弱点が出てしまった。ロス・プーマスはレッドが1枚、イエローが2枚、対してスプリングボックスはゼロだった。

実は今回のTRCではスプリングボックスは4チーム内では最多のイエローカード6枚。TRC後は規律を見直すことが必要だ。この試合での自分たちの戦い方を身体で覚えておかなければならない。

 前半8分にFBファシがラインブレイクして先制トライ。しかし、このトライの前に強力FWがスクラムを押し込んだことで、BKも動きやすかった。現在、スプリングボックスのスクラムは世界最強といってもよいだろう。

 その後14分、FLデュトイがその体格を活かし、ラックの上を飛び越えたアクロバティックなトライを魅せた。個人的にはデュトイは今回のウィンドウマウスのMVPと思っている。毎試合、愚直にボールを追い続ける、タックルする、突進する。

 11年前に21歳のデュトイを初めてスプリングボックスに迎えたハイネケ・メイヤー(※2015年ワールドカップの「ブライトンの奇跡」時のスプリングボックスHC)は「弱点のない選手」とデュトイを称えた。

 19分にロス・プーマスに1トライ返されるが、再びFBファシ、そしてWTBコルビがフットワークで相手をかわしてトライ。スプリングボックスは前半を27-7で終える。

 後半はこの試合はボムスコッドで後半すぐにピッチに入ったHOマルコム・マークスが後半29分に得意のドライビングモールからのトライ。後半33分にはやはり愚直にフォローしていたデュトイが2つ目のトライ。

 終了4分前には途中出場のSOポラードからのキックパスをCTBクリエルがキャッチし、ゴール横にボールを置いた。クリエルもこのTRCでは安定したプレーでトライにつながる状況を何度も作った功労者だ。
 ポラードは後半27分からの出場だったが、チームはそこから3トライを決め、彼自身も3つのコンバージョンを成功させた。その存在感を改めて覚えた。

 全勝優勝はならなかったが、15年ぶりの南半球王者に返り咲きだ。4チームの試合内容を比較しても、文句なしのNo.1の力と勢いがあった。やっぱりスプリングボックスは強かった。

 スプリングボックスとしての今後の予定は、恒例の北半球ツアー「オータム・ネイションズシリーズ」が11月に控えている。スコットランドを皮切りに、イングランド、そしてウェールズとの対戦が待っている。

 規律を修正して、油断さえなえれば、現在のチーム状況からすると負けることはないだろう。豪快なラグビーで2024年を締めくくってほしい。


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