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【楕円球大言葉】物議をかもすハカ。
2024年8月31日におこなわれたスプリングボックス×オールブラックス時のハカ。(Getty Images)

【楕円球大言葉】物議をかもすハカ。

藤島大


 ハカは奮い立つためにある。ハカは威厳と敬意を表わすためにある。ハカは物議をかもすためにもある。

 先日の南アフリカーニュージーランド戦もそうだった。8月31日。ヨハネスブルグのエミレーツ・エアライン・パーク(エリス・パーク)でのザ・ラグビー・チャンピオンシップ第3節。キックオフの前、いつものごとくオールブラックスのハカ、当日はカパオパンゴが始まった。

 スプリングボクスの列は毅然と対峙する。その本拠地であるから多くの観客がブーイング調の叫びというか音をかぶせる。特段のニュースではない。

 しかし、この午後はそこにとどまらなかった。「音楽、花火風の仕掛け、加えてエミレーツ航空のA380機の低空飛行」(ニュージーランド・ヘラルド)が重なった。「南アさん、やり過ぎよ」。つい落語の登場人物の調子でつぶやいてしまった。

 南アフリカ協会は9月2日に「故意ではなかった」としつつ正式に謝罪する。いわく「サウンド・エンジニアが注意を欠き、観客の声の盛り上がりをハカの終わりと誤解した」。

 各国の対ハカの歴史はそれなりに長い。1989年11月18日。ダブリン。アイルランドの名物ロックでキャプテン、ウィリー・アンダーソンは列の中央で仲間と肩を組み、先頭に立つ黒衣のナンバー8、ウェイン・シェルフォード主将へじりじりと近づいた。映像を見返すと、舞い終わる瞬間に衝突ならぬ衝突寸止めとなるよう計算して歩を進めている。なんとなく微笑ましい。

「チャレンジ」。名実況でとどろくBBC放送のビル・マクラレンはコメントした。

 チャレンジの嚆矢とされるその一幕はいまも語り継がれる。試合の結果は23-6。例によってオールブラックスが勝利を収めた。

「我々はダンスに勝った。だがゲームには負けた」(ベルファスト・ニュースレター)。アンダーソンはこの人らしくユーモアを忘れずに述べている。

 後日、アイデアは、オールブラックス元主将のアンディー・レスリーとアイルランドのジム・デビッドソン監督とのさりげない会話によって得られた、と、わかった。テストマッチの週、たまたま街中でふたりが会うと、レスリーは話したそうだ。

「多くのチームがハカにチャレンジしてこないことをいかに自分たちが愛していたか」(同前)

 かくして「両キャプテン、鼻と鼻キス事件」は引き起こされた。

 2006年11月15日。カーディフのミレニアム競技場。大観衆の目の届かぬ場所でハカは行なわれた。なんとチームの控室。もちろんウェールズの選手もそこにはいなかった。

 伏線があった。1905年に「両国」は初めて対戦した。100年後の2005年、すなわち1年前、カーディフでの記念試合では往時の式次第にのっとりウェールズ国歌より先にハカの時間は設けられた。今回も同じ進行を、と、求められると、ニュージーランド側は拒んで交渉決裂、異例の「チェンジルーム・カマテ」となった。

 最近では2019年ワールドカップ準決勝のイングランドのV隊列が有名だ。19-6のファイナル進出。こわもてのプロップ、ジョー・マーラーら数人がハーフェイラインを越えて科せられた罰金(各種報道では推定2000ポンド=現在のレートなら約39万円)と引き換えにダンスとゲームに勝った。

2019年ワールドカップの準決勝では、イングランドがV字で対峙してオールブラックスを揺さぶった。(撮影/松本かおり)

 個人的に愛しているのは2008年のカーディフ。芝の上のハカが「終了」する。ウェールズの22人はおのおの直立のままだ。表情も変えない。こうなるとオールブラックスのひとりひとりも背を向けてポジションにつくわけにいかない。

 ざっと秒針半周ほど。レフェリーのジョナサン・カプランさんのとりなしで、ようやく無言のにらみ合いはほどけた。

 ウェールズの当時のヘッドコーチ、ウォーレン・ガットランドはキウイ(ニュージーランド人)である。背番号6、主将のライアン・ジョーンズはのちのBBCの取材に秘話を明かした。

 前日にガットランドが「ハカがいつ終わるのか知っているのか」と聞いた。のどをかき切る仕草。みながしゃがんだら。違った。

「相手が背を向けて去るときだ」

 ならば誰ひとり立ち去らなければどうなる。計画は実行された。

 なんというのか「非暴力の抵抗」のにおいがした。そこがよかった。もっともスコアは29-9。やはり漆黒が真紅を破った。

 昔、ワラビーズの万能バックス、デイヴィッド・キャンピージは、目を剥き舌を出す面々に向き合いもせず、単身、同僚とも離れて、うしろのほうでキックを蹴り上げたりしていた。抵抗も黙殺も「ひとり」。いかにも、孤高の名手らしかった。

 2024年のヨハネスブルグにおける違和感の理由は「演出されたチャレンジ」に尽きる。わたしは。われわれのチームは。ハカに挑む「単位」はそこまでだ。仮に統括機関のような組織が導いたら、そいつは作為であり文化になじまない。

 ここのところは観客文化とも実は重なる。自然発生の歌やチャントのみが歴史の評価に耐える。「単位」は自発的応援団(ここは否定したくない)までだろう。一般席の有志のリードと、会場の音響を用いた「官製の煽動」とは似て非なるものである。

 さて秘話といえば秘話。日本代表もいっぺんだけハカを披露した。1967年3月12日の花園ラグビー場におけるNZU(ニュージーランド大学選抜)戦。「エイエイオー」と発声しながら手足を動かした。大西鐵之祐監督の発案である。前の晩、大阪は難波の旅館で特訓に励んだ。

 あの午後の左WTB、坂田好弘さんがのちに遠くを見るように話した。

「大西先生、大まじめで。みんなで練習しました」
 
 1番から15番までの姓を並べて「川崎、天明、神野、堀越、鎌田、山口、石塚、石田、大久保、藤本、坂田、横井、尾﨑(c)、伊藤、桂口」こそは、ジャパンのウォークライ(当時はそう呼んだ)の貴重な実演者ということになる。

 3-19の敗戦。NZUは現在とは異なり国際的にも強豪と位置づけられ、事実、SHレイドロー、SOカートン、FBウィリーメントという現役オールブラックスを擁していた。12番のケンバーも同年に代表入りしている。王国の有望株のアタックを3トライによく抑えた。古来の鬨(とき)の声とされるエイエイオーは空振りというわけでもなかった。

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