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◆シドニーの南アフリカ人。
1991年。今から33年前にシドニーのクラブチームでラグビーをする機会を得た。
当時、「日本でもラグビーをやっているのか!?」と驚かれたことは一度や二度ではない。ラグビーのプロ化前、そしてオーストラリアが南太平洋諸国からの移民を積極的に受け入れる前ということもあり、15人制のラグビーユニオンは白人、特にホワイトカラーなどのどちらかというと経済的に余裕のある人たちのスポーツだった。
したがって、100人以上はいたであろうクラブメンバーの中で、白人でなかったのは筆者とアボリジニ系の選手の2人だけ。その〝希少性〟が受けたのか、練習や試合後、メンバーからパブや飲み会への誘いがひっきりなしにあり、いろいろ思い出が作れた。
そのチームに一人だけ南アフリカ人の選手がいた。彼は2軍、筆者は4軍をベースにしていたのだが、クラブに入会した時期が近かったので、よく話すようになった。
彼は南アフリカのラグビーに高いプライドを持っており、それがオーストラリアのラグビーを見下すような発言につながることがあった。結果、チームでは浮いた存在だった。
ちなみに1991年、ワラビーズは第2回ワールドカップで初優勝する。しかし、スプリングボックスはアパルトヘイトに対する制裁によりワールドカップにはまだ参加できないという微妙な時期だった。
それゆえ、彼のスプリングボックスが最強だという話を素直に受け入れる筆者には余計に親近感が沸いたのかもしれない。何度か自宅にも招待してもらい、ビールを飲みながら南アフリカから持ってきたスプリングボックスの試合のビデオを観させてもらった。
当時、スプリングボックスの試合を観る機会は限られていたので貴重な経験だった。
1991年。故ネルソン・マンデラ元大統領がこの前年に27年にも及んだ獄中生活のあと釈放され、現在に至るまで政権与党として南アフリカをけん引してきたアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任した年である。
マンデラは3年後に予定されていた大統領選に向けて本格的に政治活動を始めた。
この頃から、間もなく黒人主体の政治体制になることや年々悪化する治安に対する不安などから、白人が南アフリカから海外へ流出するようになる。
Statistics South Africaの調査(2006〜2016年)によると、移民先として最も人気が高い国がオーストラリアであり移民総数の26%を占める。現在でもワラビーズやスーパーラグビーの選手プロフィールをみると出生地が南アフリカという選手は少なくない。
当時、そんなことは微塵も思いつかなかったが、1991年にオーストラリアにやって来たというチームメイトの彼にも複雑な背景があり移民してきたのだろう。
◆サンコープの呪い。
久しぶりにそんな彼のことを思い出しながら今年のザ・ラグビーチャンピオンシップ(以下、TRC)のRound 1、スプリングボックス×オーストラリア代表ワラビーズ戦を観た。
渡航費の削減で、今年のTRCはRound 1及び2、Round 3及び4はホームとアウェイの入れ替えがない。
スプリングボックスの場合は、Round 1及び2のワラビーズ2戦がアウェイのオーストラリア、Round 3及び4のオールブラックス2戦がホームでの試合となる。
ロス・プーマスと対戦する最終Round 5及び6のみがホーム・アンド・アウェイで通常のテスト形式になる。
対戦相手のワラビーズは周知の通り、前回のフランス・ワールドカップでは史上初のプールステージ敗退を喫した。その前年のTRCでも全敗で最下位に転落している。
さらにここ数年はオールブラックスに大差で負けることも多く、北半球のチームやロス・プーマスにも負けが込んでいる。ワールドランキングも現在、9位と落ち込んでいる。かつて、エリスカップを掲げたワールドチャンピオンは低空飛行を続けている。
ワールドカップ後、そのワラビーズを立て直すべく名称を迎えた。元アイルランドHCのジョー・シュミットがヘッドコーチに就いた。契約では少なくとも来年のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズのオーストラリアツアーまでは指揮を執るとのことだ。
言わずもがなであるが、シュミットはアイルランドをシックスネーションズで3度の優勝(うち1回はグランドスラム)に導き、同国初のワールドランキング1位に押し上げ、さらには111年間勝てなかったオールブラックスから初めて勝利を挙げた実績を持つ。同国のラグビー関係者やファンにとっては神のような存在だ。
シュミットはアイルランド代表を率いる前はレンスターのHCを務めており計9年間アイルランドに滞在した。
この間、期間は短かったがスプリングボックスHCのラシー・エラスムスもライバルのマンスターでヘッドコーチを務めた。2人は当時から親交があり、名将同士お互いを尊敬し合っている。
シュミットHC着任後のワラビーズは、ウェールズに25-16、36-28、ジョージアに40-29と3連勝している。しかし、ウェールズも低迷期の真っただ中で、ジョージアは格下のチーム。ワラビーズにとってはこのスプリングボックス戦で自分たちの立ち位置が判断できることになる。
ただワラビーズも世代交代の時期に突入している。初戦(8月10日)の先発メンバーの総キャップ数は348。そのうち10キャップ以下の選手はリザーブも含めた23名中10名。
さらにその10名のうち2名が初キャップである。
対してスプリングボックスは、先のアイルランド戦時のベストメンバーに近い布陣。先発メンバーのキャップ総数は801だった。
試合前日の練習で先発予定だったRG・スナイマンが足を負傷したため、ピーターステフ・デュトイが久々に5番で出場し、空いた7番にはインダストリアル・エンジニアとしてのキャリアを中断してラグビーに情熱を注ぐベンジャクソン・ディクソン(キャップ2)。
また、NO8には肩を負傷したエバン・ルーシュの代わりにブルズFWの大黒柱であるエルリッヒ・ロウ(キャップ4)が入った。
そして司令塔10番には満を持してサーシャ・ファインバーグ・ムゴメズルが初先発である。ムゴメズルはウェールズから始まった4つのテストマッチにはすべて途中交代であるが出場している。
ポジションもフライハーフ(スタンドオフ)、フルバック、センターと変わっており、エラスムスHCは彼のユーティリティバックスとしての資質を見極めようとしている。
初戦の舞台はブリスベンのサンコープスタジアムだった。過去のデータでは、両国の通算対戦成績はスプリングボックスの50勝40敗であるが、オーストラリアの地に限っては13勝27敗とワラビーズに分がある。つまりワラビーズはホームでは強いのである。
さらにこのブリスベンという土地はスプリングボックスにとっては鬼門だ。スプリングボックスが国際ラグビーに復帰した1990年代からブリスベンでおこなわれた13回のテストマッチで、勝利できたのはジャン・デヴィリアスがキャプテンをしていた時代の2013年1回のみだ。
特にサンコープ・スタジアムではその12回の敗戦中10回を占め、2006年には0-49という記録的敗北をしている。南アフリカでは「サンコープの呪い」と呼ぶ人もいる。
第1戦の結果は33−7だった。トライ数は5-1。スプリングボックスが危なげなく勝利した。「サンコープの呪い」は杞憂だった。
ゲインメーター(Metres gained)はスプリングボックスの532に対してワラビーズの243。その他のスタッツもほぼ圧勝で、点数以上に差があったように感じた。
目を惹いたのは前半9分のラインアウトからの最初のトライだ。試合後のインタビューでエラスムスHCが「創造性がトライを生んだ」と自画自賛した。
いわゆるダブルジャンパーシステムで、後方のディクソンが一旦キャッチし、そのまま空中から前方にいるエベン・エツベスへパス。エツベスもタイミングよくジャンプしてボールがわたりそこでモールができる。ワラビーズFWは後方に移動しかけていたので、当然、前方の守りが手薄になる。巧妙なトリックだ。
最後はモールの後方からこの日、キャプテンに返り咲いたシヤ・コリシがゴールラインを越えた。
スプリングボックス、そして南アフリカラグビーはオーソドックスなラグビーのイメージがあるが、革新的な一面も持っている。
前半34分のカートリー・アレンゼのトライも彼の個人技が光った。
アレンゼがラックのこぼれ球をゴールラインから10mぐらいの地点で拾った。その時、彼の前には7、8人のワラビーズ選手が待ち構えていたが、忍者のようなステップ。速すぎて、どうやってその間を抜けたのか確認するため、映像を何度も巻き戻しをした。
疾風のごとく密集を駆け抜けたアレンゼにワラビーズはなす術なく、背番号11はゴール中央にボールを置いた。アレンゼは後半23分にもジェシー・クリエルから相手との絶妙の間合いを見計らったパスを受け、22mを独走して試合を決めるトライを奪った。
期待のムゴメズルも4本のPGを決め、たびたび敵ラインのギャップを突き、ラインブレイクする好走を見せた。
この試合で見せたパフォーマンスが維持できればユーティリティバックスではなく、司令塔として名手ハンドレ・ポラードの強力な競争相手になるだろう。
試合後、エラスムスHCは「全体的なパフォーマンスには満足している。ただイエローカード3枚は残念だ」と7月のアイルランド第1戦とほぼ同じコメントを残した。
試合終盤にワラビーズがこの試合で唯一のトライを挙げた。その少し前、スプリングボックスに連続で2枚のイエローカードが出され、マイナス2名というビハインドでの失点だった。
意外と言っては失礼だが、スプリングボックスは比較的反則の少ないチーム。最近の試合で部分的にではあるが、規律が乱れる瞬間が見受けられるのは気になるところだ。
◆大雨の決戦、そして53年ぶりの2連勝。
第2戦(8月17日)の舞台は、東のブリスベンから西のパースへ移った。
南アフリカには“Packing for Perth (パースへの荷造り)”というオーストラリアへ移住する白人を揶揄する言葉がある。実際には南アフリカからの移民がパースに集中しているわけではなく、人数的にはシドニーの方が多い。
しかしパースは人口約210万人とオーストラリアでは比較的中規模な都市なので、約3万5千人(Australian Bureau of Statistics)といわれる南アフリカ移民の存在は大きい。
そして、その移住してきた南アフリカ人はパースのスポーツ文化を変えた。
今もそうだが、西オーストラリア州ではオーストラリアン・フットボールが圧倒的な人気を誇る。少なくとも1991年当時、ラグビーユニオンは、そこではかなりのマイナー競技だった。
しかし、ラグビーを宗教とする南アフリカ人が増えたことによりパースでもラグビーの需要が高まり、1998年にはスプリングボックスとのテストマッチが初めてパースで催された。
またその勢いで2006年にはスーパー14(後のスーパーラグビー)に参画することを目的にパースを本拠地とするウェスタン・フォースが設立された。
当時を知る世代からすると、パースにラグビーユニオンのチームができるとは想像しなかっただろう。
ちなみに今回の試合会場であるオプタス・スタジアムはオーストラリアン・フットボールやクリケットの地元プロチームのホームグランドである。上から見ると楕円(オーヴァル)の形をしている。
スプリングボックスは第1戦から先発メンバー10人を入れ替えた。キャプテンはこの試合は休養のシヤ・コリシに代わり、サルマーン・モーラット。先月のポルトガル戦に引き続き2回目の大役を務めた。
先発メンバーの総キャップ数は801から332キャップに減った。
ポルトガル戦で初キャップを得たメンバー3名を含む8名がキャップ10以下の若手選手となった。
ヤング・スプリングボックスと呼ぶメディアもあったが、要所要所にはピーターステフ・デュトイ、ジェシー・クリエル、そしてチェスリン・コルビなどの優勝メンバーを配置してバランスを取った。
対するワラビーズも経験豊富なマリカ・コロインベテやニック・ホワイトが加わり総キャップ数は460。スプリングボックスを逆転した。
第2戦は残念ながら大雨という最悪のコンディションでの決戦となった。ハンドリングミスも多く、お互いやりたいことがなかなかできなかったと思われる。
前半は、その才能は誰もが認めるものの、ウィリー・ルルーの陰に隠れてテストマッチの出場機会に恵まれないアフェレレ・ファシが両チームで唯一のトライを決めた。
しかし、あとはPG合戦となり11-9でスプリングボックスの2点リードで終えた。
後半はスプリングボックスのFWが本領を発揮し、ラインアウトモールから全3トライを奪い、勝負を決めた。 1本目は中堅のマルコ・ファンスターデンが、2、3本目はこの日は〝ボムスコッド〟で後半から出場のマルコム・マークスがボールを押さえた。
最終的には30-12。ワラビーズはノートライだった。スプリングボックスがオーストラリアの地で連勝したのは1971年以来53年ぶりということである。
エラスムスHCは試合後のインタビューで「決して美しくはなかったが、満足はしている」と試合を総括した。
満足の意味はもちろん、アウェイで2連勝し、それぞれ3トライ差以上のボーナスポイントが加わり合計10ポイントを得て最高のスタートを切れたこともある。
しかしそれより、足のケガが完治しなかったRG・スナイマンを除き、ツアーに参加した33名全員が試合に出場し、経験を積むことができたことへの満足感が大きいようだ。
メンバーを大幅に入れ替えても同じように戦って勝てた。
エラスムスHCが築こうとしている厚い選手層は、着実に拡大している。
◆故国を想う。
第1戦、第2戦ともスタジアムで目立ったのはグリーン・アンド・ゴールドのレプリカジャージを着て国旗を振る南アフリカ人の観客である。
初戦後にコリシは、「ホームのように思えた」とスタジアムを埋めた同胞に感謝の言葉を述べた。
7月のトウィッケナムでもそうだったが、スプリングボックスの試合には地元の南アフリカ人コミュニティが大挙してスタジアムに足を運び、異国の地で国の栄誉と誇りのために戦っている選手たちに大声援を送る。
彼らは異国に来て必死に生活を営んでいる自分たちの状況と、敵地での試合を戦っているスプリングボックスを重ね合わせている。
誰しも特別な理由や目的がない限り、生まれ育った故国を出て異国へ移り住みたくはないだろう。
実際、移住先では南アフリカでの資格や経験が認められず、希望した職業に就けなかったために生活レベルを落とさざるを得ないケースが多いという。
彼らがスタジアムで熱狂的にグリーン・アンド・ゴールドのジャージを着た同胞にエールを送るその先には故国を慕い、遠く想いを馳せる望郷の念がある。
次はその南アフリカ、ホームに舞台を移し、永遠のライバル、オールブラックスを迎え撃つ。
【プロフィール】
杉谷健一郎/すぎや・けんいちろう
1967年、大阪府生まれ。コンサルタントとして世界50か国以上でプロジェクト・マネジメントに従事する。高校より本格的にラグビーを始め、大学、社会人リーグまで続けた。オーストラリアとイングランドのクラブチームでの競技経験もあり、海外ラグビーには深い知見がある。英国インペリアルカレッジロンドン大学院経営学修士(MBA)修了。英国ロンドン大学院アジア・アフリカ研究所開発学修士課程修了。立命館大学経営学部卒。著書に「ラグビーと南アフリカ」(ベースボール・マガジン社)などがある。