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【楕円球大言葉】カンペイとチームドクター。
現在の菅平。5月には久しぶりに日本代表候補の合宿がおこなわれた。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】カンペイとチームドクター。

藤島大

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 カンペイをご存じか。日本ラグビー遺産の目録があれば欠かせない。かつて全国の高校ラグビー部が取り組んだサインプレーである。1962年の春。早稲田大学のラグビー部員、徳島県立城東高校出身、法学部4年の中村貞雄が考案した。

 浅く並んだライン。SOが内側CTBに弾丸パスを渡す。鋭く切れ込む外のCTBへ。とは幻惑の仕掛けで、その背中をぎりぎりで通して、後方より参加のFBへ楕円球はつながる。まずディフェンスの目、ついで足を止めて、15番は裏へ抜けるや外にコースをわずかに変え、駆け上がるWTBへ放る。

 1968年の日本代表のニュージーランド遠征でおもしろいように決まった。11番の坂田好弘はカンペイでトライを量産、やがて、かの国の競走馬に「サカタ」が登場するほどの名声を得た。

 さてカンペイとはスガダイラのことである。菅と平。合宿の季節も盛りを迎える。菅平高原とラグビーのストーリーを振り返ろう。

 先駆は法政大学ラグビー部だ。1931年。昭和6年。上田温泉電軌株式会社(のちの上田交通)が「日本のダボス」と呼ばれる同地にホテルを開いた。もっとも雪のない季節はなかなか客がこない。そこで経営幹部が同窓の法政のラグビー部長に相談する。同年の夏、さっそくチームはやってきた。ここでの行動の素早さは、後年のこの国のラグビーの発展と無縁ではない。
 
 翌32年、こんどは早稲田大学が軽井沢の沓掛より転じた。ちなみに同年のオリンピックは第10回ロサンゼルス大会。これより13年後に硫黄島で命を落とすバロンこと西竹一が障害馬術で金メダルを獲得している。現在進行中の第33回パリ大会では、日本が総合馬術団体の3位に入り「バロン西以来、92年ぶりのメダル」としきりに伝えられた。その人である。
 
 そんな大昔、早稲田のラグビー部は国際的な観点でも画期的なアイデアを実践した。すなわち合宿の期間の医師の滞在である。気候は快適だ。ただし部員の負傷に備える医療施設が近隣にはない。どうする。お医者さんを連れてきちゃえ。
 
 それは後年の「チームドクター」とも重なる発想である。もっと述べるなら、少なくともキャンプのあいだはほとんど「ラグビーのケガ」へ対応するのだから、ずっとあとになって確立する「スポーツ医学」のはしりかもしれなかった(日本における整形外科スポーツ医学研究会設立は1975 年)。

 かくして東京帝国大学医学部卒業、整形外科の水町四郎医師が山へやってくる。敏腕の副マネジャーの口説き文句は「われわれは先生の研究材料になってもよい」(『早稲田ラグビー60年史』)。以来、門下の弟子や孫弟子はラグビー界に多大な力を尽くすこととなる。
 
 早稲田は「栄養」の重要性にも気づいた。たらふく食わないと2部練習の力も出ない。では自前の調理師を雇えばよいのか。いや、それでは宿泊先の旅館やホテルの利益にならない。ならば、みずから土地と建物を手に入れようと、戦後になって各OBはまさに奔走する。赤黒ジャージィの現役諸君、大先輩はありがたい。売地を見つけるや大学当局との幾度もの折衝を経て、1961年5月に「1万7034坪を735万9600円」(『60年史』)の価格で購入した。どうやら破格らしかった。
 
 もともとスポーツとは非日常の行動である。お暑い盛りに涼しい土地で厳しい鍛練に励む。非日常の中の非日常である高原でのキャンプに思考の速度と密度はいっそう増した。チームドクターの確保、猛練習に必要な栄養の摂取→自前の土地取得、と続く理想の環境の追求は、のちの世には高地ならぬ平地での各チームの普段の活動にも広がる。あらためて93年前の法政の部長先生はえらかった。

 1967年。日本代表が初の夏合宿を菅平で行なった。大西鐵之祐監督、星名秦技術委員長は戦法の統一を図り、従来の寄せ集めオールスターとの決別を期した。「展開 接近 連続」から「超速」まで。現在のジャパンへといたる出発点である。

 このほどパリ五輪のフェンシング男子エペで優勝、26歳の加納虹輝は積み重ねた努力によって「右腕が2~3センチほど伸びて太くなってしまった」(中日新聞)らしい。記事を読んで、ラグビーの夏合宿が頭に浮かんだ。

 よりよくなろうという繰り返しの意思は肉体を変える。同時に感覚を磨き上げる。1980年代初期。慶應義塾大学の山中湖での合宿は厳しさで知られた。スクラムまたスクラム。何本も何本も。当時の左のロックが卒業から30年近く過ぎて明かした。

「あのころの慶應のスクラムはプロップとフッカーが極度に密着しているので最初は尻と尻のあいだに頭が入らない。叱られて怒鳴られて、何百本も組むうち、ある瞬間にスッと入る。すると以後は秋の公式戦でも肩がセンサーのように働いて、このスクラムでは誰が優勢で、相手のどこが弱いのか瞬時にわかった」

 精神論のようだが違う。これぞ反復の科学だろう。世界一のフェンサーの利き腕のごとくロックの首は伸びて(あるいは縮んで)太くなり、肩甲骨の神経は研ぎ澄まされたのである。ある日、スッとできるようになる。そんな「ある日」の訪れをなるだけ早くさせる。そのための濃縮=みっちり。夏合宿の値打ちだ。バロン西の時代に菅平をめざした者たちは正しかった。

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