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【楕円球大言葉】クーベルタンと100年前のパリ。
オペラ・ガルニエも五輪仕様に。今大会から新採用の「ブレイキン」の巨大な写真。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】クーベルタンと100年前のパリ。

藤島大

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#パリ五輪


 最強のレフェリー。個人的にはかの御大だ。北島忠治。存命なら123歳。明治大学の歴史をまるごと生き抜いた名監督である。大昔、よく大きな公式戦の笛を吹いた。あれほどの迫力と人間の滋味をもって「君、オフサイドだ」と告げられたら、無実でもうなずくほかはない。

 もうひとり世界史の人物であるところの主審がフランスにいた。ピエール・ド・クーベルタン。こちら生きていたら161歳。みな、その肖像をいっぺんは目にしたことがあるだろう。「近代オリンピックの父」は実は楕円球のフットボールを愛した。

 1892年3月20日の第1回フランス選手権決勝。スタッド・フランセーラシン戦のレフェリーを務めた。つまり国内トップの審判だった。興奮気味のFWに「君、参加することに意義があるのだよ」と耳元でささやけば、きっと静かになるだろう。

 さあ開幕迫る。パリ。オリンピック。ラグビー。とくれば、クーベルタン男爵のはずである。ここに駆け足で競技との関係を紹介したい。

 貴族の家系。パリの地に生を享けた。年金や借地代を得て生活の苦労はない。父は絵を描き、母はピアノを弾いた。少年期に英国のパブリックスクールにまつわるトマス・ヒューズの名著、『トム・ブラウンの学校生活』を読んだ。25歳。実際に舞台であるラグビー校を訪れ、エリート育成のためにスポーツを用いる方法に感化される。

「彼は画家の目と音楽家の耳を持っていた」(『国際オリンピック委員会の百年』)。洞察の力は大いに発揮された。ラグビー校のスポーツは軍事教練とは異なり、より自由で精神的な人格形成の実践なのだった。帰国後、みずからもボイ・ド・ブローニュというクラブでプレーを楽しんだ。

 文筆家にしてスポーツ教育者としての情熱は国際オリンピック委員会(IOC)創設、近代五輪開催へ結実する。1900年の第2回パリ大会においてラグビーは正式種目となった。IOC会長であるクーベルタンの働きかけのおかげだ。地元フランスが制した。
 
 さらに1908年(ロンドン)、 1920年(アントワープ) 、 1924年(パリ)大会まで採用される。優勝国は順番にオーストラリア、その後、米国が連覇を果たした。英国の戦績がふるわないのは、イングランド、スコットランドといった協会別の参加が認められないこともあり、出場を辞退したり、地域の選抜チームで臨んだためである。

 クーベルタンがオリンピック活動の一線を退くとラグビーは遠ざけられる。復活は2016年のリオデジャネイロ大会での7人制の採用を待たなくてはならなかった。

 少し寄り道。1924年、100年前のパリの決勝では開催国が米国に敗れた。気になりますねアメリカ。いったい何が起きたのか。

 5月28日。コロンブ競技場。カリフォルニア大学のスポーツ組織のブログを引くと「5万の怒れるフランスのファン」(californiagoldenblogs.com)が観客席を埋めた。4年前のアントワープ、フランスは雨中の決勝で米国に0-8で負けている。ゆえに殺伐たる雰囲気は漂った。

現在、パリのクレヴァン美術館にはピエール・ド・クーベルタン氏の蝋人形が飾ってある。(Getty Images)

 米国の代表選手はすべてカリフォルニアの北部から選抜された。スタンフォード大学やカリフォルニア大学の同窓生が主体。「半分はアメリカン・フットボール選手、半分は『元ラグビー選手』で構成されていた」(『ラグビーの世界史』)。

 英国経由の船で入国するも「フランスの五輪委員会がビザの書類手続きを怠り、船酔いのまま6時間も留め置かれた。怒った選手たちはラグビー式スクラムを組んで入国審査のオフィスに突入、ようやく下船できた。当地の報道は『街のごろつき』で『酒場の無頼漢』と決めつけた」(californiagoldenblogs.com)。

 練習場の使用を拒まれ、深夜に試合会場に忍び込んでトレーニングに励んだ。チップを渡して荷物の見張りを頼んだのに、けっこうなくなっていた。ホテルを出れば通行人の罵声を浴びる。「米国チームはプロ」とのキャンペーンも張られた。ついには陰謀論まで登場する。『ル・プティ・ジョナル』という日刊紙は「4年前の優勝は幻」と書いた。いわく「ラグビーの知識をまるで持たぬ米国はアントワープの『オリンピック』と名づけられた大会で、まったく練習していないフランスに大敗を喫した」。

 フランスは雪辱を期す。5か国対抗ではスコットランドとアイルランドに勝っている。「賭け率は20対1」(『ラグビーの世界史』)。不利のはずの米国は、しかし、猛然と抵抗した。

 語り草はタックルである。フランスの切り札、アドルフ・ジャウレンガイは、アラン・バレンティンのヒットを浴びて「ジャガイモの袋のように」担架に積まれた。古い映像ではよくわからないが、どうやらアメリカン・フットボール仕込みである。

「ルールの範疇にはあったがフランスの選手にも観客にもなじみのないものだった」(californiagoldenblogs.com)。

 スタンドの群衆は暴徒となる。8人の米国人美術学生が杖で襲われて病院へ運ばれる。それでも北カリフォルニアの若者たちは連覇を遂げた。17-3。トライは3点の時代の完勝だった。
 
 勝者、チャールズ・ドーの述懐。「表彰式は我々を切り刻もうとする何千もの群衆の前で執り行われた」(同前)。瓶や石が降ってきた。あわててフィールドを去ると、ロッカー室は傷ついた米国人観客のための野戦病院と化していた。
 
 クーベルタンの唱えるラグビーの理想とはいささか異なる状況は皮肉のようでもある。しかし34歳のころの著書にある「結局のところ、フットボール(ラグビー)とは人生の反映であり、現実の世界を学ぶ場であり、第一級の教育手段なのである」(『Notes sur le foot-ball』)との信念は揺るがなかった。
 
 2024年のパリ五輪。クーベルタンの存在は小さい。なぜか。過去の著作や発言に「性差別」や「植民地主義」の思考が見つかるからである。たとえば1935年のラジオ局のインタビュー。

「本当のオリンピックの英雄とは私の目には成人の男性である」「私は女性の公式競技への参加を認めない」「結局のところ彼女たちのオリンピックでの役割は昔と同じように冠を授けることである」(『FRANCE24』の記事より引用)

 それは当時の一般的な考え方であり女性蔑視というより好奇の目からの擁護を意味する--という意見もある。他方、すでに女性のスポーツ参加に献身する人々は存在したのだから言い訳にならない--との否定的見解も尽きない。

 いわば社会の進歩にともなう再評価である。クーベルタンとラグビーの結びつきに思いをはせつつ忘れてはならぬ視点だろう。いま女子の7人制はオリンピックに欠かせない。
 
 さて、ほどなく7月24日。パリにおいてフランスと米国が男子7人制でぶつかる。日本時間23時30分開始予定。現地の実況者なら「100年前の遺恨」に触れるかもしれない。

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