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『Just RUGBY』はじめました。

『Just RUGBY』はじめました。

田村一博

 専門。ど真ん中。それだけ。
『Just』にはそんな意味を込め、言いやすさ、覚えやすさを考えて決めた。
 2024年6月18日、『Just RUGBY』(ジャストラグビー)が動き始める。

 ラグビーを感じるWEBサイトだ。
 記事を読み、チームやプレーヤーの魂に触れる。
 写真を見て、その時の表情やシーンの向こうにある、歩んできた道を想像してほしい。
 雑誌を作るように記事を積み重ねていくのでWEBマガジンとした。

 取材対象者に深く迫る。真実を写す。雑誌なので、いろんなニュースも詰め込む。
 ただ、読み捨てではなく、何度も見返したくなるようなWEBサイトでありたい。

 1989年から2024年の春まで、雑誌編集部で働いた。
 野球雑誌に4年かかわり、ラグビー専門誌には30年。そのうち、26年間編集長を務めた。

 小学4年時から中学3年時まで、宮崎県南部の日南市、油津に住んでいた。
 インターネットも携帯電話もない時代。ほしい情報は、駅の近くの銀天街にあった小さな本屋で買う雑誌や、たまに行く宮崎市内の大型書店で仕入れるものから得た。

 鹿児島市内で過ごした高校時代は、大学では地元を離れ、福岡や東京など、都会へ出ることばかり考えていた。
「ぴあ」を買ってエンタメ情報を見たり、他にもいろんな雑誌を買って、「鹿児島を離れたら…」と、頭の中は妄想でいっぱいだった。

 福岡教育大の受験に行った時、所在地の福岡県赤間が鹿児島より小さな街と知って愕然とした。
 たまたま東京の大学に受かっていなかったら、その後の人生はどうなっていたか。
 きっとラグビーとも出会わず、高校時代と同じ野球を続けていたと思う。

 東京の大学を受験する者は、鹿児島に戻る時、お土産を買って帰るのが仲間うちの約束になっていた。
 私は、みんなに「原宿」と書いてある吊り輪を買った。蛍光灯の紐の先に付けたり、飾りに使う用のものだ。

 受験生同士で原宿訪問の話が出た。人が多いから早い時間から行こうと午前8時過ぎに向かうと、竹下通りはガラン。ゴミを漁るカラスがたくさんいる光景があった。
 絵に描いたような田舎者ぶり。情報弱者だった自分が恥ずかしいようで、かわいい。

 いまならインターネットで検索して、好きなスポーツやエンタメ情報はいくらでも手に入り、竹下通りのカラスを見ることもなかったが、買った雑誌の中のお気に入りのページをスクラップすることもなければ、前述のような想い出もなかった。
 世の中の情報環境が劇的に変わる狭間の時代を生きることができて良かったと思う。

『Just RUGBY』はただの情報サイトではなく、チームやその人の信念、感情、キャラクターが伝わるようにしたい。
 これまで雑誌作りでやってきたことを、これからも続けるつもりだ。

キックオフ直前の緊張感がたまらなく好きだ。(撮影/松本かおり)

 編集長の職から離れることになって、「いちばん印象深い取材はなんでしたか」と何度か聞かれた。その問いに、明確には答えられなかった。
 頭に浮かぶのは、誰もが知っているような試合やシーンではなかったからだ。

 質問への返答を考えた時、なぜか思い出すのは、大塚貴之さんのことであり、大和貞さん(ただし/故人)の言葉だった。
 ふたりとも、高校ラグビーの現場で会い、話した。

 大塚さんと会ったのは、2010年の夏だった。大分雄城台高校のグラウンドを訪ねた。そのとき高校3年生。当時、同校ラグビー部のキャプテンだった。

 聴覚に障害を持ちながらチームの先頭に立っていた。打倒・大分舞鶴。少年は毎日、毎日、そう思い続けていると言った。

 生まれた時から無音の中で育った。引っ込み思案だった少年は、小学生の時に楕円球と出会って以来、積極的になった。やがて、いちばんの情熱家になった。

 雄城台高校のグラウンドで、こう話した。
 闘志を表に出す自分。仲間はそれを内に秘めたまま。そんな状況に、「舞鶴に勝ちたいのは俺だけか」と言ってしまった。
 そのことが心に引っかかっている、と。

 その後、高校生活の最後の試合、花園予選の大分県予選決勝では大分舞鶴に7-14と惜敗した。
 試合後にはみんな泣き、抱き合ったと聞いた。

 結果的に主将の言葉は仲間の心に火をつけ、チームはひとつになった。
 しかし、激情をぶつけてしまった自分の振る舞いが正しかったのか否か思い悩む心の動きに触れ、ラグビーが、キャプテンという立場が、少年を大人にするのだとあらためて感じた。

 2008年11月16日の秩父宮ラグビー場では、大人の涙を見た。
 その日は東京都の花園予選決勝。東京高校が明大中野高校に10-7で勝った。

 試合後、明大中野の大和貞監督は「負け惜しみでなく、この勝利はあちらに差し上げます。東京高校はよく鍛えられ、素晴らしいチームでした。それに対しウチの子どもたちも立派、最後まで崩れることがなかった」と言って続けた。

「それでダメだったのだから(勝利は)差し上げます。その代わり、ウチの子どもたちは大きなものを手にできた。あれだけタックルしても、あれだけ頑張っても、思いが通じないことがある。それを、身をもって経験できた。社会に出たら、必ずそんな困難と出会います。子どもたちは、この歳にしてそれを知った」

 円陣で涙をこらえていた大和さんは、部員に背を向けた途端泣いていた。

 2024年5月26日、リーグワンのプレーオフトーナメント決勝。東芝ブレイブルーパス東京が埼玉パナソニックワイルドナイツに24-20のスコアで勝ち、頂点に立った。
 その試合は日本ラグビーのレジェンドのひとり、ワイルドナイツの堀江翔太の現役最後の試合でもあった。

 堀江はラストゲームを戦い終え、ピッチサイドでのインタビューの中でこう話した。
「生まれ変わったら、もうラグビーはしません。それくらい、十分過ぎるほどラグビーをしました。幸せなラグビー人生を歩みました」

 私は26年間編集長を務めても何も達成していないので、これからもラグビーの魅力、その周辺にいる魅力ある人たちのことを伝えていきます。
 ラグマガでお腹いっぱいになった気がしましたが、また腹が減ってきました。

蹴り上げられたボールが空に吸い込まれる光景は私の原風景。(撮影/松本かおり)


【プロフィール】田村一博/たむら・かずひろ

『Just RUGBY』編集長。鹿児島県立鹿児島中央高校→早稲田大学。早大GWラグビークラブでラグビーを始める。ポジションはHO。1989年、ベースボール・マガジン社に入社。ラグビーマガジン編集部に配属される。1993年から4年間の週刊ベースボール編集部勤務を経て、1997年からラグビーマガジン編集長に就く。2024年1月に退任し、現在は編集者、ライター。

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