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タックルは人生。大竹智也[日体大4年/FL]
大和ラグビースクールでラグビーを始めた。仲間思い。(撮影/松本かおり)

タックルは人生。大竹智也[日体大4年/FL]

田村一博

 タックル。すぐに立ち上がり、次のプレーへ。キックチャージも全力。80分、ずっと相手に圧力をかけ続けた。
 日体大の背番号7、大竹智也は12月14日に熊谷ラグビー場でおこなわれた関東大学対抗戦の入替戦でチームの勝利に貢献した。

 この日、伝統の水色×紺の段柄ジャージーは、成蹊大に40-8と快勝してAグループへの残留を果たした。
 4年生の大竹にとっては、大学最後の試合。その80分を「満足できるプレーをやれた」と振り返る。

 来季もAグループで戦える権利を後輩たちに渡せた。試合に出られない4年生の気持ちを背負って戦った。
 濃密なラストゲームだった。

 桐蔭学園出身。3年時には花園で頂点に立ったチームでFL(7番)を務めた。
 タックルの数と激しさ、正確さで信頼を得るプレーヤーだ。
 175センチ、80キロとサイズに恵まれているわけではないのに強烈なタックルを得意とするのは、高校時代の恩師、藤原秀之監督に「武器を持て」と言われたからだ。

「そう言ってもらい、小さい体でも、高校、大学とタックルを磨いてきました。それを最後の試合でも出せたと思います」

 自分のスタイルを確立している。
「ボールが浮いている間に相手との距離を詰めます。自分の間合いに入る。相手より先にヒットする。そうしないと大きな相手には勝てません」

 成蹊大戦で見せた好ディフェンスの理由を「仲間のサポートがあったから」と話す。「練習でメンバー外の選手たちが、相手がしてくることをやってくれた。それで、次はこうくる、と読めたところもありました」

 成蹊大FWは順目に動き、走りながらパスをもらう。ボールを動かす際、FWからSOへのパスのスピードが緩い時がある。
 そんなことを頭に入れてプレーしたことが奏功した。

 不屈の人だ。高校2年時は夏に倒れた。
 髄膜炎を発症し、足の内出血で歩けなくなった。発熱も。1か月の入院。夏合宿にも参加できなかった。その間、「桐蔭では、もう試合にでられないのか」と泣いた。

元オーストラリア代表主将、マイケル・フーパーに憧れてきた。(撮影/松本かおり)


 第90回全国高校大会で同校が東福岡と両校優勝したのを見て感動。憧れて入学し、自分がチームを単独優勝に導くと誓っていた(実際は自身が高校2年時に優勝。本人は出場なし)。
 その夢は叶わないと思ったら、涙があふれた。

 そんな、しょぼくれていた自分に勇気を与えてくれたのが藤原監督だった。
「面会に来てくださり、いろんな話をしていただきました。そのとき、絶対に桐蔭のジャージーを着て、この人のためにラグビーをしたいと思ったんです」

 しっかり体を治してグラウンドに復帰してからは、誰よりもはやくグラウンドに出るようにした。必死に練習し、タックルを磨いた。
 高校3年時の花園制覇は、その結果だった。

 日体大に進学したのは、藤原監督の母校であるとともに、教師になり、将来は指導者として教え子たちを花園へ連れて行きたいと思ったからだ。
 大学でも、練習の虫として生きる日常は続いた。

 朝練と午後練の間の時間にも、ウエートトレーニングに取り組んだり、走ったり、自分の土台を鍛え上げた。「正直、誰よりも練習量が多い自信はあります」と言い切る。

 とことん練習するのは、「チームのために体を張りたい。ファーストジャージーを着たい。強く、そう思っているからです」という。
「試合に勝つことも、ジャージーを着るのも、練習しないとできないことなので」
 チャレンジし続ける。それが自分の人生だ。

 教員採用試験ではいい結果が出ず、一般企業に就職する。しかし、夢を諦めるのは自分の生き方ではない。社会で学んだことを、いつか教壇に立ったときに生かすつもりで新生活へ向かう。

 タックル、タックル、またタックルのラストゲームを終えて、「もっとラグビーをしたい自分もいるんです」と湧き出る思いも吐露した。

 トレーニングは継続するのだろう。4月になれば、仕事にも間違いなく全力で取り組む。
 目の前のことに全力を注ぐことは一生変わらない。


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