Keyword
◆忘れられないラストシーン。
それぞれから同じ言葉が出た。
「このラグビー部の雰囲気。それが好きでした。きついときもあったけど、だから頑張れた」
31歳と29歳。ふたりのフッカーはこの春、同じタイミングでブーツを脱いだ。
9月15日に今季トップイーストリーグ Aグループの初戦、日立Sun Nexus茨城との試合を戦う東京ガス。同チームのバックヤードには、今季からサポートコーチ兼採用の小川一真と、サポートスタッフ(グラウンドサポート)の下山田領治が加わった。
ともに昨シーズンまでピッチに立っていた。
小川は帝京大の黄金期を過ごした人だ。4年生のときにチームは7連覇。同期には坂手淳史(現・日本代表)が同じポジションにいた。
大学時代は3年時、4年時と公式戦に出場。ピッチに立った試合は決して多くなかったものの、チームを支える力のひとつだった。
圧倒的なフィジカリティーの強さを前面に出して、常勝軍団への道を歩んだのが帝京大だ。当時は小川自身も、筋肉がギュッと詰まった、パンパンの体をしていた。
社会人になっても鍛え上げた肉体で、最前列の真ん中で相手と組み合い、接点で押し込んだ。
しかし、引退からしばらくして目の前に現れた30歳は、わずか数か月のうちに体重を15キロほど落としていた。
その理由をさらりと言う。
「現役時代は、無理して体を作っていたので」
ナチュラルな身体でプレーできたのは長崎北陽台高校時代までだった。
全国から腕自慢が集まる大学では、人一倍トレーニングを積んで、食べて、さらに、持ち味である頭を使うプレーや、オフ・ザ・ボールの動きでライバルたちに勝負を挑んだ。
それは東京ガスに入ってからも続いた。
6歳の時、長崎ラグビースクールで楕円球を追い始めた。同スクールで中学までプレーし、高校時代は花園に出場した(2年時、3年時)。大学では、上級生が雑用などをおこなう、脱体育会という新しい文化を作る流れの中に身を置き、刺激を受けた。
常勝チームの中で、自分がど真ん中に立って周囲を牽引したわけではない。自分の言葉で学生時代の充実を伝える。
「もっとグラウンドに立てていれば、(頂点に立った時に)違う景色を見られたと思いますが、そうはできなかった。ただ、優勝したチームで活動できた嬉しさがあります」
東京ガスに入社した理由は、「最初に声をかけてもらったので」。決断に迷いはなかった。
「ラグビー選手として声をかけてもらえて嬉しかったですね。まだラグビーを続けられるんだ、と」
自分のことを身体能力が低いと言う。だから無理やり体を作り、頭を使っていた。
正直、常にキツかった。
貯金でプレーすることなんてできないから、走り続けるしかなかった。
働きながら10シーズンはプレーしたいと思っていたけれど、8シーズンで現役から退くと決めたのは限界を感じたからだ。
仕事100、ラグビー100を貫きたいのに、忙しくてグラウンドに足を運べないときもあった。
「それでもここまで続けてこられたのは、チームのみんなも似たような状況にある。分かり合えています。みんなと会うと、すごくリラックスできていました」
ラグビーのクラブハウスには、そんな空気がある。心地いい。
キツくてたまらなかったラグビーだったのに、引退直後からコーチを務める理由を、「やっぱりラグビーが好きで、ラグビーをしないでどうすんだ、って気持ちになった」と笑う。
肉体面もメンタル面も、たくさん悩みを抱えてきた選手の一人だった。同じような立場にある選手もいるだろう。
得意とする頭を使ったプレーの肝を伝えるとともに、いろんな角度から選手たちを支えていくつもりだ。
現役最後の試合は、2023年度シーズンのトップイーストリーグ最終戦のヤクルトレビンズ戦だった。
途中出場から試合に出てフルタイムを迎えた。なんの悔いもなかった。
その日への準備を進める1週間の途中で、「次で終わり」と決断した。だから、すっきりしたラストシーンだった。
本当にやり切った。
相手チームには2歳違いの弟、正志がいた。試合終了直後に近づいてくると、感極まって抱きついてきた。
ふたりは、女手ひとつで育てられた。小川は兄として、2歳しか違わないのに父親の代わりのように振る舞ってきた。
その場のふたりに言葉はいらなかった。抱き合うだけで、お互いにいろんな思いがわかり合えた。
ラグビーを続けてきたから、そんなラストシーンを迎えられた。最後に、一生忘れられない光景が待っていた。
コーチとして伝えていきたいことが、頭の中にも胸の中にもたくさんある。
◆時間をかけて信頼を得た。
28歳で引退を決めた下山田は、10シーズンを東京ガスラグビー部で過ごした。
そこは、人生のすべてを教えてくれた場所と言ってもいいかもしれない。
福島県出身。平工業高校ラグビー部では2年時、3年時に全国大会(花園)に出場した。バックローとしてチームに貢献した。
小中学校時代にも勿来ラグビースクールで少しプレーした経験はあったが、熱中したのは高校時代からだ。
高校卒業後上京し、東京ガスで働きながら楕円球を追う生活を始めた。
川崎の寮に暮らし、職場と大森グラウンドを行き来する日々。始発電車で出勤し、練習を終えて帰宅するのは深夜0時前後ということも少なくなかった。
「若いからやれたと思います。ラグビーが好きだから、ということも理由ですね。でも、なにやっているんだろう、と思うこともありました」と当時の記憶をたどる。
若き日の苦悩は当然だった。
高校を出たばかりだ。職場でもラグビー活動の場でも、周囲は大人ばかりで先輩たち。
ポジションは高校時代のNO8からHOへ転向した。慣れぬ位置でスクラムを組み、自分の前も左右もオッサンばかりなのだから。
8番から2番に移ったこともあり、最初の3年はついていくのがやっとだった。スクラムを組めるようになったのは4年目からだった。
その頃から試合出場の機会も増えてきた。「10シーズンは長いようで、(試合に出始めたのが遅かった分)終わってみれば短かったような気もしています」。
商業施設にガスを巡らせるための導管の維持管理をおこなっている。仕事とラグビーの両立は大変だった。
しかし、家と職場の往復だけの生活だったら、都会での暮らしはもっと殺伐としていたかもしれない。
自分にはラグビーがあって良かったとつくづく思う。
だってグラウンドにいくと、いつでも大好きな人たちが待っているのだ。
「チームの雰囲気が好きだったんです。(職種の違いで、同じ会社でも普通なら)仕事では関わらない人たちとも話せるし、いろんなことを教えてもらえた。ラグビー自体が楽しいのはもちろんなのですが、そこを気に入っていました」
引退は怪我(左膝内側靱帯断裂)もあり自分で決めた。
ラストシーズンは4試合に出場。セットプレーの安定感に信頼があった。
トップイーストで優勝した2019年度のシーズンには9試合に出場。チームへの貢献度も高かった。まともにスクラムを組めなかったところから優勝チームのFWを束ねる存在になったことだけでも、この人の実直さが分かる。
清水建設に17-38と完敗したのだが、2018年10月26日に秩父宮ラグビー場でおこなわれた試合は深く記憶に刻まれている試合だ。
金曜の夜に実施されたその一戦に下山田は先発して後半途中までプレーした。「差をつけられて負け、悔しかった」が、応援に来てくれた人たちの表情は忘れられない。力いっぱい仕事もラグビーもしたから、そんな感情になれた。
いろんな選択がある中でラグビーをやってよかった。
右も左も分からなかった10代の青年が、専門職の技術を評価され、ラストシーズンまでチームを代表して戦えた。自分だけの輝かしいヒストリーと言っていい。
「時代により価値観は変わるでしょう。仕事とラグビーを両立させることも、いまでは希少なことだと思います。確かにきつい。でも、仲間たちと一緒にそれに全力を尽くしていることを、みんな誇りにしてほしい」
一人ひとりが、自分の中に誇りを持って生きていける集団になるように、これからもチームを支えていく。