佐藤幹夫は、リーチ マイケルの恩師として知られる。
のちにラグビー日本代表としてワールドカップに4度出場のリーチは、2004年に15歳で来日。まもなく入ったのが、札幌山の手高校のラグビー部だった。
当時、このチームを率いていたのが佐藤である。現在は総監督を務める。
今夏、竹書房より『No Pain,No Gain 人間的に成長する集団を目指して/札幌山の手高校ラグビー部の挑戦』を上梓。リーチとの出会いやエピソードのほか、校内暴力の全盛時に過ごした学生時代、女子高から共学化したばかりだった札幌山の手高校での奮闘ぶりを綴っている。
7月19日。同高のグラウンド脇のベンチに腰をかけて話した。
——拝読しました。大変な人生を歩まれていすね。
「そうなんですよ。生きているのが不思議なくらいで」
——少年時代は腕っぷしが強く、喧嘩の仲裁や助太刀を頼まれることが多かった。著書では、友人から近所の中学校の「殴り込み」に誘われたエピソードを描いています。その出向く先が、美術教師をされていたお父様の勤務先だった。
「そうそうそう。その時は『さすがに俺は行けないなぁ』と断ったんだけど、夜、家に帰ってきたら親父が『お前の中学校の悪ガキが来ていたぞ! お前が来ていたら学校に入れなかったぞ!』って。
親父は絵描きだったので早期退職しました。北海道展の審査員をしたり、書道の先生だった母親と2人で個展を開いたり。親父は去年12月に93歳で亡くなり、おふくろは近くの施設にいて、先生からは『100歳まで生きそうだ!』と言われています」
——ラグビーを本格的に始めた国士舘大学を経て、1988年に札幌山の手高校でラグビー部を創部しました。
「ラグビーを経験して大人になったと感じていました。(ラグビー部の仲間や先輩と出会った)国士舘大学に行かなかったら、ちょっと調子に乗った人間になっていたなと。山の手では当時、進学する子はほとんどいなくて、ほぼ全員が就職する。当時の北海道では社会人のラグビーチームが結構あったんですよ。だからそこの監督に会いに行って、『1人でもいいから採って欲しい』ってお願いを。それで(生徒には)『皆、ラグビーをしたら就職できるぞ』って。あとは『進学したいのは手を挙げろ。相談に乗る!』とも」
——部員集めの際は、たばこを持っていた生徒に停学とラグビー部入りを天秤にかけるよう迫ったとか。
「(取材場所から見える校舎を指して)そこの生徒玄関で毎朝、立っていた。(生徒は)いちばん向こうの信号を渡ったあたりで、自分(佐藤)がいることに気づく。
そこでたばこを持っている生徒は、不審な動きをするんですよ。(ポケットをまさぐる動作をしながら)こう…ね。それに対して『あ、たばこ、持ってるな』という感じでした」
——決め台詞は「停学か、ラグビー部に入るか」。
「するとね、今度は周りが『先生、あいつたばこ持ってたよ』とチクってくるんです。で、『お前、そう聞いたけど、ラグビーやるのか?』『…やります!』って。それで、1年目から1年生だけで大会に出ましたからね」
——それがきっかけで3 年間、続けている部員もいるのですね。
「暇しているのが多かったので、集まることに意義があるというか。当時、絶対に嫌だ、嫌だと言っていたのが、いま、感謝しているんですよ。ラグビー大好きになって、ラグビー協会のためにも率先して手伝ってくれる」
——徐々に全国大会出場が現実的になる。
「試合に負けたら、泣くんですよ。その時がチャンスだと思ってね。『やっぱり悔しかったら練習するしかないんじゃないか』って、少しずつ(強くなった)。
2000年に初めて花園(全国高校大会)に行ったんですよ。逃げ足の速い奴がスクラムハーフになって、野球部を途中で辞めた奴はナンバーエイトでプレーしましたね。
ある年、喧嘩が強いのとか、逃げ足が速いのを皆、集めて、『俺と50メートル走で対決するぞ』とグラウンドへ連れていったことがありました。そこには(入部を)説得する上級生も待っていた。走ったら俺が負けるのはわかっていたから、『…急に職員会議が入ったから、あとは先輩たちと話をしろ』なんてね。
それで、マイケルが来たのが2004年。その頃だってド素人も、やんちゃなのもいました。でも、マイケルが来たあたりから、皆が一生懸命、練習するようになった」
——その後、定年を迎える2021年度までに計20度の全国行き。現在は総監督として札幌山の手をサポートする傍ら、北海道ラグビー協会の理事長になりました。
「周りの人が全部、やってくれるので、名前だけという感じ。何で自分が(指名)されたのかがよくわからないけど。
うちには教育実習生も来るけど、彼らにはパワーポイントを見せるんですよ。僕が(別の機会に)頼まれた講演用の、本に書いたことを短くしたようなものです。それを見て教員を目指したいと思った人もいて…。やっぱり高校(の競技人口)はどんどん減っているし、ラグビーを経験した情熱のある教員を増やさないと。
最近、小樽のやんちゃな子の多い中学校の校長をやっている知り合いからしょっちゅう連絡が来るんですよ。『びしっと生徒指導のできる奴はいないか?』。それには『ちょうど教育実習でいいのが来てるから、来年、面倒見てやってくれ』と面接に連れて行って。いまだに、そんなことばかりしています」
すすきのの飲食店へ立ち寄ると、新刊へのサインを求められる。記す文字は「Mikio T」。佐藤の「S」ではなく「Teacher」の「T」。
リーチが自身にサインを書いてくれた際の宛名がそうなっていたのを採り入れたようだ。