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ラストゲームで血まみれになった。
36歳。29年続けたラグビー人生は、相模原ギオンスタジアムで終わった。
細田佳也は2011年にNECに入社。その年の春以来、一貫して社員選手としてプレーを続けてきた。
当時はトップリーグだった。チームは2022年1月のリーグワン開幕に合わせ、NECグリーンロケッツ東葛とチーム名を変更。細田は足かけ14年に渡り、我孫子を拠点とした現役生活を送った。
血まみれになったのは5月25日(土)だった。
リーグワン2023-24のディビジョン1とディビジョン2の入替戦、リコーブラックラムズ東京との第2戦。初戦に21-40と敗れたグリーンロケッツがD1に昇格するには、20点差以上をつけて勝利することが条件だった。
その試合に細田は、6番を背負い先発した。
5月10日にはチームが今季限りで引退することを発表していた。192センチ、103キロの体躯を生かして長くプレーしてきた男は、現役最後の試合で大仕事を任された。
1年前にも引退を考えていた。2022-23シーズンはリーグ戦の16試合中12試合に出場も、9試合がベンチスタート。プレータイムをあまり得られず、パフォーマンスにも納得がいかない。
社業のこともあった。ブーツを脱ごうと考えた。
その思いを覆したのは、チームがD1からD2に降格したからだ。
三重ホンダヒートとの入替戦2試合には自身も途中出場し、敗れた。
「このままでは終われない、と。もう1年だけやって、チームを昇格させる。自分の頭の中に、そんなラストシーンを思い浮かべました」
チームからも残ってほしいと言われ、心は決まった。
最後の1年、レギュラーシーズンの出場は4試合(先発1)にとどまった。ピッチに立ち続け、周囲を牽引することはできなかった。
しかし、「どんなときでもチームに貢献し続ける」思いは貫いた。
大事な入替戦第2戦に先発したのは、5月17日に我孫子グラウンドでおこなわれた、U20日本代表候補との練習試合でのパフォーマンスが高く評価されたからだ。それを見ていたウェイン・ピヴァック ヘッドコーチが起用した。
どんな状況でも、「自分のやるべきことをやり切る」、「チームに貢献する」ことを貫いた結果だった。
そうやって迎えたラストゲームは、グリーンロケッツでの113試合目、公式戦94試合目だった。
当日は落ち着いていた。
「いつも通りにプレーする。やるべきことに集中しよう。特別な感情はありませんでした」
ただ、1年前に描いた絵は現実のものとならなかった。
相手の9トライに対し、こちらは無得点。チームを昇格させることはできなかった。
0-55。考えてもいなかったスコアだった。
血まみれになったのは、前半9分のアクシデントが原因だった。
モールでのディフェンス時、味方LO、サム・ジェフリーズの肘が額の右上部分に当たり、カットする。出血して一時ピッチを離れた。
「出血が止まらず、ドクターもどうしようか、と」
大事な試合だ。ラストゲーム。まだ9分。責任を果たせていない。
「なんとか(血を)止めてください、と祈るような思いでした」
頭部をテープでぐるぐる巻きにし、やがてピッチに戻った。すぐにいつものように、献身的に動き回った。
ピヴァックHCは、細田に最初から飛ばしてもらい、後半途中からヴィリアミ・ルトゥア・アホフォノを投入する予定だった。
しかし、NO8アセリ・マシヴォウがレッドカードを提示されたことでプランが崩れる。細田は結局、試合終了時までプレーし続けた。
「最初から全力で、あとのことは考えていませんでした。持つかな、と思いましたが、最後までピッチに立ち続けることができて、本当にありがたかったですね」
このメンバーで飲むこともしばらくなくなるなあ。
最後の試合は完敗に終わった。その大きな点差は頭にないものだった。そもそも1年前から、勝ってD1へ昇格することだけを考えていたのだから。
レメキ ロマノ ラヴァ主将は試合後、「こんな試合は初めて。みんな必死でタックルしているのに、起き上がって振り向けば、トライになっていた」と話した。
細田も、その感覚に同意した。
「でも、これが自分たち、チームの実力なのだと思いました。(人生は)本当にうまくはいかない。あらためて分かりました」
試合後のロッカールームはしんみりしていた。
思いもよらぬ大敗。そして、昇格できなかった挫折。その試合を最後に、チームを離れる選手たちが何人もいた。
「自分も、これで終わりか、という気持ちにはなりました。でもその時は、あまり強くは思いませんでした」
引退の事実をあらためて強く感じたのは、5月30日におこなわれたチームの納会の時だった。
シーズン最後のオフィシャルな行事だった。
みんなの前で挨拶する機会があった。プレーを続ける後輩たちへ向けて話した。
今後、どういうチームであってほしいか、自分の言葉で伝えた。
「リーグ戦が終わり、順位決定戦、入替戦と勝てなかった。それが自分たちの本当の実力。それを受け止め、来季はみんながどう行動するのか、どう取り組むのか。それが大事と話しました」
一人ひとり、ラグビー選手としてもっとやるべきことをやる。練習に臨む態度を見つめ直し、気持ちを示す。静かながらも、熱いメッセージだった。
我孫子事業所で開かれた全員での納会を終えた後、何人かの仲間と駅の近くの居酒屋へ行った。
先輩の瀧澤直、同じタイミングで引退する土井貴弘の両PRと、後輩のFLで副将の亀井亮依、権丈太郎コーチ、そして、OBでスタッフの広澤拓、山崎翔らがいた。
「そのとき、このメンバーで飲むこともしばらくなくなるなあ、と思った。引退するんだなあ、と感じました」
いろんなことを話した。みんな、それぞれの立場で悩みを抱えていた。チームのことを考えていた。
グリーンロケッツのことを「真面目」と表現する。
「決めたことを全員で、一生懸命にやるチーム」
そんなカルチャーを気に入っていた。
引退後は社業に専念する。
スポーツビジネス統括部で、チームや選手の地域貢献に関わる職についてきた。
これからは、IT化の進む公的施設、組織に対しての営業職に配属される予定だ。
ラグビーに関わる選択肢もあった。
しかし、「人生経験のひとつとして、いましかできないことなのかな、と思い判断しました」という。
ラグビーをしていなければNECのような大企業に入れなかったと思う、と言って微笑む。
社員選手の権利を使い、価値を示すことも大事だ。それが後輩たちの進む道にもなる。
細田は1987年8月5日生まれ。長野県飯田市で育った。
小学2年生時、上郷(かみさと)ラグビースクールに入った。本人は友人らとバスケットボールを楽しもうと思っていた。しかし、両親に「人と違うスポーツを」と勧められ、楕円球に触れた。
ラグビースクールでプレーを続けながら高陵中の陸上部にも所属。三種競技(100メートル走、砲丸投げ、走り高跳び)に取り組んだ。
当時から180センチ台後半の長身も、100メートル走のベストタイムは11秒8とスピードがあった。
進学した飯田高校では3年生時にラグビー班のキャプテンを務めた。同校では伝統的に、部活動のことを班活動と呼んでいる。
最後の花園予選は準決勝で長野高校との進学校対決に敗れ、西に向かうことはできなかった。
日大進学は、1年間の浪人生活を経たあとのことだった。筑波大進学を目指していたが吉報は届かなかった。
体育教師になることを志していたから浪人生活は、目指す学部の入試内容に合ったカリキュラムが組まれていた。
勉強と体育実技の両方に取り組んだ1年だったこともあり体力は衰えず。日大進学後も1年時から出場機会に恵まれた。
チームは2部を舞台に戦ったり、入替戦出場など、上位進出はならなかった。しかし、その才能を見てくれていた人がいた。
セブンズ代表、サンウルブズ、そして日本代表。
グリーンロケッツへの入部は、現在・横浜キヤノンイーグルスで活躍する田村優、花園近鉄ライナーズの村田毅らと同期だった。
細田と田村の部屋は、4階建ての寮の1階で仲が良かった。
会社の研修は朝が早い。「起こして」と頼まれたりした。よく飲みにも行った。当時から、「ラグビーには鋭く、真面目だった」印象がある。
村田からは、ラインアウトの緻密さと細部へのこだわりを学び、それが刺激になった。
「あまり考えてラグビーをやってこなかったので、名門校(慶大)の深さを知りました」
当時のグリーンロケッツは武骨なチームスタイルだった。FWが強く、特にゴール前の攻防で熱く戦うチームだった。
細田はその頃の空気を、意識して後輩に伝えようとしてきた。
バックローには、細田、トンガのレジェンドであるニリ・ラトゥ、そして万能の土佐誠(オックスフォード大、ケンブリッジ大の両方でヴァーシティーマッチに出場)が揃うこともあった。なんでもできそうな顔ぶれだ。
「飲み会にはいつもニリがいて、そこでも存在感は抜群でした」
勝って飲み、負けても飲んで、話し、結束を固める。先輩たちから継承されてきたグリーンロケッツの伝統を実践した。
セブンズ日本代表、そして日本代表と、桜のエンブレムを胸に戦ったことは、長いキャリアの中のハイライトと言っていいだろう。
セブンズ代表に選ばれたのは2014年。トゥイッケナムの芝に立ち、大観衆(7万4969人)の中でプレーしたときには感激した。
「ただフィジーとの試合では、相手が目の前から消えました。これはタックルできないな、と思いました」
同代表への選出は、その年だけだった。
15人制の日本代表への選出は2016年の春だった。
バンクーバーでのカナダとのテストマッチに6番で先発も、後半13分にレッドカードを提示されて退場となった。呆然とした表情でピッチの外に出た。
ラックに突っ込んだ際に、相手の顎に頭がヒットした。
「まったく自覚がなく、何が起こったのかも分かりませんでした。スタジアムのスクリーンに自分の姿が大きく映し出され……まさか、レッドカードとは」
試合には26-22となんとか勝利したから良かったものの、「(負けていたら申し訳なくて)どうやってラグビーを続けていこうかと思いました。仲間に感謝です」と当時を回想する。
初キャップの嬉しさと苦い思い出が交錯する一日だった。ラグビー人生であの時以外に、カードを出されたことは一度もない(イエローもない)。
通算キャップ数は2。翌年の韓国代表戦には途中出場した。
グリーンロケッツ加入2年目に断裂したアキレス腱を再断裂するなど、ケガとともに歩んだ人生でもあった。
特に肉離れは、いろんな箇所で繰り返した。しかし、「それも体のケアに無頓着だった自分を変えるきっかけになったし、だからこそ、長くやれたのかもしれません」と話す。
日本代表選出は、同年に発足したサンウルブズでの活躍もあったからだ。
スーパーラグビーの高いレベルの中で13試合に出場した。チームにとっての歴史的初勝利、ハグアレス戦にも先発出場。秩父宮ラグビー場が熱狂したあの一戦は、自分史の中でも輝きを放つ80分だ。
セブンズ、ジャパン、そしてサンウルブズと、得てきた名声を羅列すれば、誰もが羨むような人生。
「僕もそう思います」と笑った後、「たいしたことはしていないんですけどね」と続けた。
その言葉から、真のラグビーマンの謙虚さと誇りが伝わる。細田佳也の誠実さが詰まっている。