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【引退インタビュー】みんな大好き。鈴木実沙紀<br>[元15人制・7人制日本代表/東京山九フェニックス]
すずき・みさき。1992年4月9日生まれ。釜利谷クラブ→関東学院大→東京山九フェニックス。15人制日本代表はキャップ31、7人制日本代表はキャップ19。ポジションはFL、NO8。(撮影/松本かおり)

【引退インタビュー】みんな大好き。鈴木実沙紀
[元15人制・7人制日本代表/東京山九フェニックス]

田村一博

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◆本気のチャレンジ。区切りがついた。


 少し前のサクラセブンズなら中村知春だったか。
 鈴木彩香はかつて、このカテゴリーの顔だったかもしれない。

 世間の人たちに女子ラグビーについて問えば、彼女たちの名前なら知っていると返って来ることがある。
 その2人が日本のウィメンズラグビーを照らす太陽のような存在なら、鈴木実沙紀は青空だ。
 気持ちいい。まわりの人たちを、なんだか前向きな気持ちにしてくれる。

 15人制で31キャップ。初キャップは2010年5月22日の香港戦(秩父宮)。先発のNO8アンジェラ・エルティングに代わって17番で出場。高校3年生の時だった。
 HO永田虹歩に代わってピッチに立った2022年のワールドカップのカナダ戦まで、足かけ13年の代表生活だった。

 7人制でも19キャップを持つ。
 こちらは2010年から2016年までのキャリア。2013年にモスクワで実施されたワールドカップセブンズにも出場した。

 長い髪をうしろに束ねて、相手のボールを奪う。
 世界のラグビーを統括するワールドラグビーが新しい用語を推奨しようが、ここはスティールとはしたくない。ジャッカルクイーンと呼ばれたその人が、2024-25年シーズンを最後に、現役引退を決めた。

 最後の奮闘の場に選んだのはニュージーランドだった。
 全国女子選手権を制したフェニックスでの2023-24シーズンを終えた後、2024年の2月に海を渡る。高校2年時、2018年に続く、3度目のラグビー王国での生活を送った。

 オークランドのマリストクラブでプレーし、FLで求めてくれたカウンティーズ・マヌカウ代表でプレー。2018年はオークランド代表に選ばれたから、同国の女子NPC(国内州代表選手権)の舞台に立つのは2シーズン目だった。
 ただ、もうひとつ上のステージであるスーパーラグビー・アウピキから声はかからなかった。

2012年5月19日の香港戦(秩父宮ラグビー場)では、20歳で日本代表史上最年少主将も務めた。(撮影/松本かおり)


 もう一度世界へチャレンジしたかったから、ニュージーランドをプレーの場に選んだ。
 2022年のワールドカップを終えた後、サクラフィフティーンのセレクションから漏れていた。
 世界に挑みたくてもそうできない状況に、ワールドクラスの選手がうようよいる中に自ら飛び込む決意をした。

 シーズンを終えた時、まだできるな、とは思った。それと同時に、やり切った感覚があった。
 予感はあった。渡航前、同期など仲のいい仲間たちには「最後のチャレンジになるかも」と伝えていた。
「本気でチャレンジし、本気でラグビーを楽しめた。私、やっぱりラグビーが好き。そう思えた。一区切りついた感じがしたんです」

「いつかまた、やりたくなるのかな」と話す表情がやわらかい。
「女子ラグビーって、エネルギーをもらえると思うんです」と話す仲間思いは、これから一生ラグビーと関わっていくために自分に何ができるのか、急がず探す。

 この4月から、昨秋婚約したパートナーの故郷でもあるニュージーランドで暮らしている。7月には新しい生命も家族に加わる。その生き方が、また周囲を元気にする。
 1992年4月9日生まれ。33回目の誕生日はオークランドで迎えた。

 人生を振り返ると、ラグビーへの入り口はタグラグビーだった。横浜市立宮谷小学校で出会った。
 新体操にも打ち込んでいたけれど、小6のときに市大会で準優勝して楕円球熱はますます高まり、道は決まった。

◆からっぽ。無になった。


 横浜市立軽井沢中学校時は釜利谷クラブに所属してタグを楽しみ、関東ユースに選ばれたことでラグビーの深みに足を踏み込んでいった。
 高校進学時に千葉の市立船橋を選んだのは、女子部員が活動していたことに加え、ラグビー経験者と初心者のバランスがよく、1年生はタックルやブレイクダウンをイチから教えてくれると知ったからだ。
 中学時代からFWプレーがうまくなりたくてしょうがなかった。

 高校3年で初キャップを獲得したこともあり、代表チームへのリスペクトを忘れたことはない。
 代表プレーヤーとはこうあるべき。自分なりの高いスタンダードを常に持ってアスリート人生を歩んだ。

 若いからなんて許されない。最初からそのレベルにあるべき。
 誰がピッチに立ってもチーム力が変わらないように、代表ならば、すべての選手が高め続けないと。
「そんな風に、とんがっていました。でも、年上の先輩の方々は生意気な私に優しく、いろんなことを教えてくれました」

 日本代表には、20歳以上離れているベテランもいた。
 自費で遠征に行ったり、ウエアも自分で購入している時期も知っている世代で、言いたいことはきっといくらでもあっただろう。
 しかし、そんなことは口にせず、グラウンドの上では決して妥協しない。うしろ姿で大事なことを教えてくれる存在を尊敬した。

 そんな時代があったから、自分が代表で上の世代になった時、あるいは試合のピッチになかなか立てなくなった時、「そのポジションでやれることがある」と、プレー以外でもチームに貢献することがあると、試合ごとに気持ちを切り替えられた。
「とはいっても、いまの若い選手たちは私と違い、ちゃんとしているんですけどね」

 そうは言いながらも、大なり小なり、一人ひとりの選手が悩みを抱えている。
 例えば2022年のワールドカップ。出場機会は初戦のカナダ戦しかなかったが、大会期間中、鈴木彩香、平山愛らとチームを良き方向にドライブする役目を果たした。

【写真左上】2022年ワールドカップのカナダ戦。【写真右上】日本代表としての最後の試合は2023年ワールドカップ。【写真左下】フェニックスには大学時代から11シーズン所属した。【写真右下】2023年度の女子日本選手権での優勝を都庁に報告。(撮影/松本かおり)


 長くプレーしていたから、最初の頃と引退する時の自分は大きく違う。
 転機は2度あった。

 最初は、2016年のリオ五輪出場を目指していた道の途中。オリンピックイヤーの4月にサクラセブンズのスコッドから外れた。
 何年もラグビー一色の生活をしていた。合宿が年に300日に迫る年もあった。そんな日々を過ごしていたから頭が真っ白になった。

「あの時の私、私たちが目指していたのは、オリンピックで金メダルを取ることでした。スコッドにすら入れず、そこを目指す資格すら無くなった。いまだったら、そこに向かうまでの過程にも学ぶことがあったし、その過程に向き合った自分を誇りに思うぐらいの余裕はあるのですが、当時は『無』になりました」

 正真正銘、からっぽになった。
「無なんですよ。なにもなくなった。ラグビーを辞めたいとか、そういうことすら考えたくなかった」

 そんな自分を救ってくれたのは、関東学院大時代から所属しているフェニックス(現・東京山九フェニックス)の仲間たちだった。
「みんな、私が代表に選ばれていることを誇りに思ってくれていたし、落ちれば悔しがってくれた。でもあの時、みんなが『一緒にたくさんラグビーができるね』と言ってくれた。あー。私には帰る場所があるんだと思った。求めてくれるみんなのために、思い切り体を張ろうと思いました」

◆「人生のすべて」から変わった。


 2度目の転機は2018年。前年、アイルランドで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれた。
 その大会は全5試合に出場した。しかしチームは香港から1勝しただけ。世界の壁の厚さをあらためて思い知った。

 当時の女子日本代表はワールドカップが終わると、翌年などに活動の空白期間が持たれた。
 その期間を使い、ニュージーランドに行く決断をする。2017年W杯で優勝した国に乗り込んで、強さの根底にあるものなどを学ぼうと思った。

 いい機会。
 そんな風に言ってくれたのはフェニックスの代表、四宮洋平氏だった。チームはオークランド協会と提携している。日本の選手に興味があるから、誰か送ってほしい。そんな話があるから「行ってみるか」と背中を押してくれた。

「お前はオンばっかりだから、と。いつもゴムが伸び切った状態だと、ここぞ、のときにパワーが出ない。緩めている時があるから、引き伸ばした時にまたパワーが生まれる。そういうところを学んでこいと言われました。私、立ち止まったら、また走り出すのにすごいエネルギーがいる、と思っていました」

 行ってみて分かったことがたくさんあった。
 クラブ(マリスト)やオークランド代表には、いろんな女子選手がいた。出産してグラウンドに戻ってきた人。ラグビーをやりたくて、早朝から早めの午後までの仕事に就いている人。一人ひとり、ラグビーをする意味が違う。歩んできたバックグランドも。

「私、そういったことをすっ飛ばしていた気がしました。例えばフェニックス。日本一になるとか、そういう目標はチーム内でみんなが共有していても、選手一人ひとりのラグビーをやっている意味は違う。何がなんでも勝ちたい人もいれば、楽しくやりたい選手もいる。そこを本当の意味で理解できていませんでした」

 長く一緒にプレーしてきた後輩の塩崎優衣から、「実沙紀さんはニュージーランドに行ってから優しくなりましたよね」と言われたと笑う。
「以前はつんつんしていたらしいです」

ニュージーランドに発つ前には、仲のいい齊藤聖奈のもとを訪ねたり、多くの仲間と会った。(撮影/松本かおり)


 彼の地では人生観も変わった。
 試合で敗戦を喫した後、さっきまで目を吊り上げて戦い、悔しい思いをしていたのに、フルタイム後は笑顔。さらに、対戦相手と談笑しながらビールを飲んでいる。
「この人たち、なんなんだろうと思いました」

 そんな違和感があったのも、「私は人生のすべてがラグビー」だったからだ。
 だから、リオ五輪のスコッドから外れたとき、消えてなくなりそうだった。

「あちらの人たちは、人生の中にラグビーがある。ラグビーをやれると幸せだから、それを生活の一部に入れていました。そういうことを知って、人生の中にいくつかの柱がある方がいいんだな、と思えるようになりました。結局、その方がラグビーのパフォーマンスにもつながる。ラグビーがうまくいかない時も心が折れ切らない。もう一つの軸の方でエネルギーを補充できたりする」
 そんなマインドになれた。

 自身のSNSでラグビーのこともプライベートなことも発信しているのは、すべてが自分だから。
 芝を駆けている時。仲間とのパーティー。ビーチで遊ぶ。そのすべてが自分を支えているものと考えられるようになった。

◆ラグビーは、人生を豊かにしてくれた。


 ラグビーを好きな理由はいくつかある。

 まず、「仲間が好きです」。
「ラグビーをしていなかったら、いろんな世界を見ることはなかったし、いろんな人と関わることもなかった。ラグビーを通して世界が広がっていく感覚が楽しかったんです。物理的にいろんな国に行くのも楽しいけれど、大会先で相手チームと話したり、いろんな国の人に会える。ラグビーがあったからこそ、自分の価値観や見ていく範囲が広がりました」

 競技性そのものも自分に合っていた。
「例えばブレイクダウンは、レフリー(の傾向)にも対応しないといけないし、ルールも変わる。同じ競技、似た局面なのに、対応を変えていかないといけないのが楽しいんです。難しいけど、どうしたらいいのかなと考える。その中で、自分の強みを出していく」

「私、運動神経がないんです」と真顔で言う。「私のことを、何でもできるプレーヤーとか他の人に言うと笑われますよ」と愉快そうだ。

「特に球技。合宿などでサッカーやろうとか、バスケットしようとかになると、もう最悪。すごく下手です。サッカーは特に。ラケット競技もダメ。どこに飛んでいくかわかりません。そんな私でも、ラグビーはできた」

7月には新しい家族が増える。(撮影/松本かおり)


「ラグビーは人生を豊かにしてくれました」
 胸を張って、そう言える。

 若いプレーヤーたちには、長くプレーを続けてほしい。
 まだまだパフォーマンスが上がっている最中の選手が代表からなかなか声がかからない。そのまま長く続けていても、女性としてのライフイベントや就職のことを考え、「今後が心配だからやめます」という人たちを見てきた。
「もったいないですよね。ラグビーは人生を豊かにしてくれます。ラグビーのお陰で、自分が広がっていく感覚があった。だから、みんなラグビーを続けようと思ってほしい」

 ロールモデルとして生きている人たちが、たくさんいるじゃないか。
「いま、引退した選手が女子ラグビーを広めるいろんな活動をしたり、いろんな生き方していますよね。私も32歳までプレーしました。そういう例を見て、長く続けてもそういうことができるんだ、という見方をしてもらえたらいいな、と思っています」

 自分自身もニュージーランドで、コーチなのか、マネジメントなのか、強化や育成なども含め、「自分が何をできるか分からないけど、やれることを探すつもりです。今後の女子ラグビーに自分がやってきたことを還元していきたいと思っています」。

 いろんなことを話した最後、写真撮影の前に鏡を見て言った。
「私、鼻の骨折を3回しているんです。で、右が空気が通りにくくなっていて、おばあちゃんになった時に息がしにくくなるよ、と。なので、しばらくしたら手術するんです」
 眼窩底や指の骨折もあったけれど、大きな怪我なく現役生活を終えられてよかった。
「だから本当に、思いっきりラグビーをやれました」


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