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高校のころ。寮の同室の友に借りた雑誌にこんな内容の文章があった。どういう記事かも忘れたのに、そこの一節だけはずっと記憶している。
生は平等ではない。恵まれた家や国に誕生するのと、そうでないのとでは違う。しかし死の瞬間は平等である。だから死に近い人こそは大切にされなくてはならない。
フランスの、いや、地球規模の至宝のごとき背番号9、アントワンヌ・デュポンが先のアイルランド戦で「右膝の前十字靱帯」を断裂した。復帰には数カ月、いくつかのメディアによれば「9カ月」(イブニング・スタンダード紙)を要するらしい。
ニュースに触れて反射的に先の「生は平等にあらず」を思い出した。半分は生まれながらの際立つ才能が万人に平等なはずの痛みをこうむると、そこにからんだ対戦相手を冷たい目でとらえてしまう。
当該のシーン、アイルランドの2番が前進、フランスの9番(デュポン)は戻りながら巻きつくように倒し、そのまま立つ。緑のジャージィの5番、すぐあとに3番が、おそらく前方のレ・ブルーの5番めがけてクリーンアウトを仕掛ける。だが、その標的はボール奪取をあっさりあきらめる。結果、すかされるかたちで、はねのける側の体勢が乱れ、SHとの接触に至った。レフェリー(アンガス・ガードナー)は一般的なプレーと見なした。
フランスのファビアン・ガルティエHC(ヘッドコーチ)は「非難されるべき」と試合後に言葉を強め、アイルランドのサイモン・イースタビー暫定HCは「ラグビーの出来事」と述べている。
もし、勤勉なロックの肩に膝の機能を壊された人物が「惑星で広くベストの選手とされる」(ガーディアン紙)デュポンでなかったら。仮に聖なるアントワンヌにけっこう迫るくらいのタレントだとしても、さほど話題とならない。公式記録の「選手交代」の小欄に背中の番号が記されるだけだ。
古今東西の「名も無き負傷者」のみなさん、あなたの膝や足首や腕の激痛、心を含むうずきもまた語られてよいのです。ギプスを巻いて夕陽の校庭で練習見学の貴女も貴君もデュポンなのだ。

のちにこの欄を担当する昔の若者もラグビー部時代はよくグラウンドに伏した。大学3年秋。肩の骨折。レギュラー組は出場しない部内マッチで、東北の高校の陸上部出身、なのでスピードに乗ると速いロックを後方から追いかけた。ちっとも差は縮まらない。そこで逃げるスパイクのかかとを手ではたいてみた。当時の大西鐵之祐監督が「いよいよ最後の手段だ」と春のミーティングで例に挙げたのだ。
右手で右足をパーン、なんと走者はバランスを崩して倒れた。さすが大西監督。そして倒したほうの右の肩鎖関節は地面に落ちてピョンと跳ねあがった。入院。手術。かくしてラグビーをするのではなくラグビーをする人を書く将来は決まった。いまも野球のキャッチボールやクロールの泳ぎはままならない。
翌年。同じ部のひとつ後輩に力のあるフランカーがいた。球を奪う感覚と腕力、さらにずしんと重いタックルが優れていた。シーズンをにらんでレギュラーのポジションはすぐ前にありそうだった。しかしBチームで臨んだAとの白熱の紅白戦。ラックのファイトで「1軍をおびやかすやっかいな2軍実力派」はポジション防衛を誓う者どもの的となり、激しいやりとりのさなか、顔面のどこかの骨が折れたか折られた。
いまでも、あれがなければ全国放送の大試合に登場できたのではと思う。惜しい。惜しかった。と、知るのは、あのとき周囲にいた仲間だけである。いくつか別の負傷もあって公式戦との縁は遠ざかり、卒業後は故郷の宮崎の教員の道を歩んだ。ラグビー部を率いて、比較的新しい公立校を花園へしぶとく導き、何人もの逸材を関東の大学へ送り出した。
2011年12月27日。花園ラグビー場。全国高校大会の初日であった。放送解説の控室には対戦両校のメンバーの最新情報が集まる。「萩商工の1番、変更です」。えっ、いまになって。なるほど、たまにウォームアップで足をくじくような事態だってなくはないのである。
こういう場合、とっさに「3年生でなければいいなあ」と願う。自分がコーチの立場で高校最終学年の部員たちの純粋な心に接してきたからかもしれない。せめて2年なら「来年もあるさ」と救われる。ダメだ。3年。優勝候補級なら期間中にも「次」はある。でも多くのチームは開幕日を含めて全ゲームがファイナルだろう。
萩商工高校は東京高校に0-38で敗れた。悔しい欠場の田村紀之は、なんと開始前の練習場所からロッカー室へ向かう廊下でスパイクの底を滑らせ、後年のフランスの国民的ヒーローと同じようなところを痛めたらしい。一応はリザーブに名を残すも実際のプレーは難しく出場記録はない。主催機関の誠意でもある磨き抜かれた床のもたらす罪なき悲劇であった。
気になって田村君について調べたら、前回大会の7-17と健闘の黒沢尻工業高校戦には先発フル出場しており、中継スタッフ一同、いくらか安心した。
きっと列島各地にはもっと切なく、苦く、笑うほかないほど運のない「ケガ人」の無念があちこちに漂っている。そのことを世界のだれも知りはしない。
デュポンの靭帯の傷は物語とされる。アイルランド人の普段通りのぶちかましも、対象が王様なら「解釈」を呼ぶ。そこにいくらか違和感を覚える。

1995年にプロ解禁。翌年、アマチュア時代のウェールズの稀代の名ハーフ、いまならデュポンともいえるガレス・エドワーズにインタビューした。
「試合後に敵味方入り乱れてビールを酌み交わすラグビー文化が消滅するのであればオープン化(プロ容認)には反対します。いまのいままで戦った相手に敬意を抱き、友情を培い、互いに理解を深めるのがラグビーなのだ」
と述べて、続けた。
「地味な仕事を続けるプロップと華々しい9番や10番の報酬に差がつくことはあってはならない。そこが気がかりです」
あらためてアントワンヌ・デュポンは、タイミングのいたずらにより右側の膝をやられた28歳、パスやキックやランのそれは上手なひとりのラグビー選手である。勝っても負けても退いてもニュースになる。ここまではしかたがない。ただ、その上等な脚に運悪くダメージを与えたロックを責めては、スポーツの純粋をそぐ。
サッカーのリオネル・メッシへの深いタックルは、合法であっても、つい批判の対象とされがちだ。ことにフレンドリーマッチではそうだろう。共有の財産を潰すな。なんというかビジネスを毀損するかのごとく扱われる。
ラグビーはラグビーなのだから、それより手前に踏みとどまろう。こちらは無名が高名をいかなる機会にぶっ倒してもかまわない。ワールドカップやリーグ公式戦でなくとも、いざ開始の笛が鳴れば遠慮無用。ゆえに親愛と敬意は養われる。いま、たとえば北海道や沖縄のどこかの高校に通う17歳のフランカーは、いつの日かプレシーズンに遠征してきたトゥールーズの大ベテラン、デュポンと対峙するかもしれない。かまうもんか。肋骨(いちばん下の方)をめがけて全身をぶつけようではないか。