
普遍。ふへん。古い広辞苑を引く。
「①あまねくおよぶこと。ゆきわたること。全てのものに共通であること②宇宙や世界の全体についていえること③ある部類のあらゆる事物に共通な性質についていう語」
長く、ある部類、この場合はラグビーを追いかけては見てきた。ルールが変わり、アマチュア競技はオープン化(プロ容認)され、トレーニングの科学やテクノロジーもどんどん発展、しかし古今東西、「あらゆる事物に共通な性質」は確かに存在する。
根幹のゲーム構造。角度のもたらす錯覚。決戦に臨む心理のありよう。身体を動かすにあたっての心得。「あのころ」の正しさはいまも死なない。
気をつけよう。「昔の人はえらかった」は危ない。「昔の人も」くらいでちょうどよい。本コラム筆者はJSPORTSの解説をする。放送中の思考の原点に「昔の人もえらかった」がある。たとえば。
スクラムの場面。フロントローは互いに負けん気と駆け引きをぶつけ合う。その際に決まって頭に浮かぶ言葉がある。
「プロップはある日、突然、強くなるんです。ロックの押しは毎日の積み重ねで少しずつ強くなる」
往時の名手の見解ではない。40年近く前の早稲田大学ラグビー部の控えの左プロップがつぶやいて、たまたま耳にした。
都立高校から受験浪人を経て入部の部員、宮崎達矢いわく。最前列は対人なので、練習で組み合う先輩にボロボロにされる惨めな時間は続く。つらくてたまらない。ところが、ある日、ある瞬間、肩の使い方やつま先の向きなどなど、何かの拍子にコツをつかむ。
「すると、それからは押されなくなるんです」
何十年も過ぎて、ジャパンの元1番を含む複数の一流にそのことを正しいか、と、聞くと、みな学校レベルで押されまくった経験はまれなので、明瞭に言語化こそされないものの、おおむね、うなずいてくれた。戦術的交替のない時代のベンチをよく定位置とした学生は普遍をつかまえていた。
本年1月の大学選手権ファイナル。本欄でも紹介したが、帝京大学と早稲田大学の先発のロックおよび第3列の平均体重は前者が107・8㎏、後者は96・8㎏であった。11㎏も違う。どちらも8人でひとつのスクラムを身につけたので、その「重さ」の分だけヒットのあとの第2波に差が生じた。
ただし先発のフロントローを比べると、勝者の帝京は平均104kgで早稲田が110kgとさかさまになる。そこで、また先の一言を思い出した。
フッカーとプロップはダイレクトな人対人なので、体重で劣っても、秘訣というか秘術のごとき個人の技量や身体能力や思慮の深さ、ヒットの鋭さで対抗できる。うしろ5人は前3人をはさんで相手とぶつかるので、ともにまとまれば、体重の違いのみがまさに違いとなる。
2019年のワールドカップの準々決勝のジャパンと南アフリカがちょっとそんな感じだった。大会終了後、スクラム担当の長谷川慎コーチにインタビューしたら、対スプリングボクスの印象をこう述べた。
「ほかの国となら1秒力をこめればよいところが3秒、4秒」
身長2m級のひしめく後方5人の体が長いのだ。本大会が始まり、どんどんスクラムも固まって、巨漢ぞろいのロックの「毎日の積み重ね」はますますものをいった。

リーグワンの解説中にふとよぎる「昔の人」の発言をもうひとつ。
「もっとプレッシャーウェーブの研究をしてください」
1998年。横井久さんに諭された。かつてのジャパンの監督である。このころ66歳。母校の早稲田のグラウンドを訪れ、みずから部員を動かして以下の実験をした。筆者はコーチのひとりとしてそこにいた。
スクラム起点のライン攻撃。10番は浅く立つ。次のインサイドCTBは深い位置に構える。パスの軌道は、昨今の「バックドア」とも重なる。理論家で鳴り、7人制の戦術考察の先駆でもあった人は説明した。
「最初にパスを受ける人間の立つ線上までしか相手のプレッシャーウェーブはこない。だから10番がフラットにパスを受けて、その線で波(ウェーブ)を止めて、深い位置のCTBに放るとそこにスペースは生まれる」
続けて。
「もし外の防御がこちらの10番の線を無視して深い位置のCTBまでプレッシャーをかけてきたら、相手のSОとCTBのあいだにギャップができて簡単に抜くことができる」
背番号で9-10が広く浅く、10-13を狭く深く。「距離と角度を変化させて、こちらから仕掛ける」。大先輩の視点は鋭かった。
モダンなラグビーでは、フェイズのアタックにおいてFWがフラットに近いパスを受けて、深いところのBKによく渡す。原理は同じだ。だから2025年の実況解説席に1998年の「研究をしてください」という静かな口調はよみがえる。
もうひとつ。1992年春の試合中の声より。
「サイン、変更」
東京都立国立高校の痩身の背番号7は、強豪の目黒(現・目黒学院)高校戦の自チーム投入スクラムの直前、首をきょろきょろ回してグラウンドの左右を視線で確かめると、そう叫んだ。位置は敵陣ゴール前15㍍のあたり。
春の公式戦である。関係者でない観客が自然に拍手するような接戦を演じている。こういう状況に備えるオープン攻撃のサインプレーがあった。コーチとして現場にいて、そいつで勝負だと思った。やはり、そのコールは発せられる。
ところが7番の南塚正人は、主将でもないのに、いわば、とっさに「サイン、変更」を仲間に伝えて、さっと右へ開いて(当時はフランカーもボール投入後にスクラムを離れられた)ナンバー8からの球を受け、フォワードパスすれすれで14番へつないだ。トライ!
「いやあ、スクラムの右があいてたんで」。あとで本人は話した。卒業後は東京大学ラグビー部のラインアウトの名手、社会に出て、国際派の公認会計士となり、日本ラグビーフットボール選手会のサポートにも励む。
近年のラグビーはもっぱら「遂行」を競う。たっぷりのデータをもとにコーチやスタッフが細かくプレー選択を定め、つまり正解をいかに正確に成し遂げるかに力を注ぐ。どのチームも的外れの攻守に走るのはまれ。ゆえに突出した個の破壊力やキャッチパスのような基底のスキルの熟達が優位をもたらす。
でも。しかし。球技の攻防の歴史は進みながら循環する。周到な準備とそこを踏み外さぬ実行の次には、ひとりの役職なしのプレーヤーの「サイン、変更」の出番も訪れる。訪れてほしい。もちろん15人がのべつガヤガヤと自分のアイデアを唱えたら負ける。あくまでも、本当にここというところでの観察、感覚、判断の余地を残す。そのためには人間の集団の理想である「自由闊達」の文化がなくてはならない。
ちなみに「闊達」はわが広辞苑にこうある。「こせつかぬこと」。いい響きだ。