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本心を言えば、まだプレーしたいし、やれる。
イーグルスからも、ぜひ続けてほしいと伝えられた。
しかし、コーバス・ファンダイクにとってラグビーは人生のすべてではなく、その中の一部だから引退を決めた。
「家族が故郷の南アフリカで牧場を営んでいます。それを手伝うため、帰国することに決めました。私が横浜キヤノンイーグルスでまだプレーしたいと言えば、両親も、きっと応援してくれたと思います。でもいろいろ話していると、本当は手伝ってほしい気持ちが分かりました」
2020年から5シーズンに渡り、トップリーグ、リーグワンでプレーした。
初年度はコロナ禍で6試合だけの開催も、5季で59戦に出場した(リーグワン44戦、トップリーグ14戦。クロスボーダーラグビーのブルーズ戦1試合を含む)。
日本代表選出の居住条件についても、まもなくクリアできたかもしれない。
しかしそれについても、桜のエンブレムを意識してラグビーをプレーしたことはなかった。
「ラグビーを楽しむ。そのマインドが、いつもいちばん強かった」
言葉の端々から、やり切った人の充実感が伝わってくる。
全力でラグビーを楽しんだ人の表情は、終始柔和だった。
自分のキャリアがハイレベルなまま、来たるべき日を迎えたいと思っていたから、願い通りではあった。
それでも、愛しているラグビーに自ら別れを告げるのだ。簡単なことではなかった。
しかし、自分を必要としてくれている人たちがいるのは幸せだ。
ステレンボッシュ大では農学と農業経済学の学位を取った。それを使ってビジネスに本腰を入れる時期が来た。
広大な農場と1200頭の羊たち
実家は小麦などの穀物を育て、収穫している。羊も1200頭いる(牛も少々)。
「敷地の広さは500ヘクタールぐらいです。南アフリカでは、そんなに広くない規模です」というが、東京ドームなら100個強、ラグビーフィールドなら700個強になる。
ファンダイクは少年時代、その農場で自然と体を鍛えることになったそうだ。
収穫した穀物を束にして、トラックの荷台に投げ込む。その作業の繰り返しで強靭な肉体になったという。
「自分の心の中で、(以前から)ラグビーと農業が行き来していました」と話す。
ただ、全身全霊をかけてラグビーに取り組んできた。そうでなければ、スーパーラグビーでもプレーできなかったし、日本に来るチャンスも得られなかった。
感覚としてお腹いっぱいラグビーをやったら、家族の元へ戻り、学んだことを生かす人生設計を立てていた。
3人兄弟の長男。敷かれたレールの上を歩いているのではなく、自分で選択した道だ。
7月には30歳になる。
西ケープ州のブレダスドルプ生まれ。カレドンにあるオーバーバーグ高校に学んだ。
ステレンボッシュ大時代は勉強とラグビーを両立させた。その結果、プロ契約を得られたことは誇りだ。
早くからウエスタン・プロビンス州代表として活躍。ストーマーズでスーパーラグビーも経験した。
2017年の活躍は特に印象が強い。ストーマーズで15試合に出場。国内の伝統ある州対抗戦、カリーカップでは、頂点に立ったチームに貢献した。
ストーマーズでは通算29試合に出場した。
ただ、チームには南アフリカ代表主将のシヤ・コリシ、ピーターステフ・デュトイとバックローのスーパースターがいた。
起用されるポジションはオープンサイドFLが多く、もっとボールキャリーもしたかった本人にとっては、プレーの幅が限られていることに物足りなさを感じていた。
「ヨーロッパか日本でのプレーを考えました。大学とストーマーズでともにプレーしていたジャン・デクラークがイーグルスでプレーしていたので、チームのこと、日本のことを聞き、来日を決めました」
階段を昇った5シーズン。
日本での最初の年は、南アフリカ人のアリスター・クッツェーが指揮官だった。
停滞していたチームが上昇し始めたのは2季目、沢木敬介監督が就任してからだ。
沢木さんが来てからチームが変わっていったと証言する。
「チームの信念、メンタリティーが、私が最初に加わった時といまでは大きく違います。イーグルスは下から這い上がってきた。そのチームがセミファイナルで、ワイルドナイツと対等に戦えるチームになった。今季はケガ人も出て苦しんだ時期もありましたが、それでも良い成績を残せたのは、チームのキャラクターが構築されてきたからだと思います」
自身もチーム同様に、日本にいる5年間で成長した。
もともと日本ラグビーの、ボールと人を動かすスタイルが好きだったこともあり、その部分に、より磨きがかかった。ラインアウト獲得数では今季リーグ9位。活躍のシーンは幅広かった。
日本での最後の試合は第15節のトヨタヴェルブリッツ戦となった。その試合で首を痛め、後半26分にピッチから出た。
すぐに治療、リハビリを開始し、セミファイナルのワイルドナイツ戦は出場予定メンバーに入った。しかし試合前のウォームアップで再び違和感が出て出場を回避した。
大一番に出られなかったのは残念だ。
「でも、シャワーを浴びてスタンドに座り、仲間たちがピッチに出ている姿を見たら、そんな気持ちはどこかへいった。残りの日々、こいつらを全力でサポートしようと思いました」
日本で生活する中で国内のあちこちに出かけ、食べものや環境にも慣れた。楽しい5年。積極的に日本のものを食べ、話した。
「最初のうちは観光客のようだったかもしれませんが、やがて、その土地に暮らすローカルな住民になれたと思います」
「日本はすべてのことがしっかりとオーガナイズされています。時間にも正確」と、たくさんのことを知り、学んだ。
人生のレッスンを受けたと表現する。
「イーグルスの選手もそうでしたが、日本人は自分のコミットする役割に関し、100パーセントでやる。その文化が根付いています。一人ひとりが、そのことに誇りを持っています」
自分が歩んできた道を振り返った時、深く記憶に残っている試合がいくつかある。
ひとつは2017年、ウエスタン・プロビンス州代表としてカリーカップのファイナルで勝ったもの。あと2つはイーグルスでのものだった。
「昨シーズン(2022-23)の第2節、神戸(コベルコ神戸スティーラーズ)に勝った試合は、チームの一体感を感じる素晴らしいものでした。もう1試合は、今季のサンゴリアス戦。最後の最後(後半43分)に優(SO田村)のPGで逆転勝ちした試合は印象に残っています(37-35)」
これからも多くの南アフリカの選手がやって来る。
仲間と力を合わせ、ゴールに向かうのがラグビーの魅力だった。
そしてこのスポーツを、いつも興味を持ってやれていたのは、その競技性ゆえだった。
「どこにスペースがあるのか、それを見つけながらプレーする。ラインアウトで相手との駆け引きの中、いろんなサインを使ってプレーする」
飽きることがなかった。
多くの南アフリカの選手たちが日本でプレーしている。その状況は、これからも変わらないだろうと言う。
「日本のラグビーはやっていておもしろい。そこに魅力を感じる選手たちがこれからも続くでしょう」
2023年のワールドカップで、南アフリカ代表は3度目の優勝を果たした。
同国内は高校も、大学もラグビーが盛んで、各地のクラブもあれば、ローカルなクラブ、州代表、そして欧州チームも交えたユナイテッド・ラグビーチャンピオンシップに参戦するスーパークラブもある。
アマチュア、セミプロ、プロフェッショナルと、それぞれのカテゴリーが厚いのが特徴だ。
その環境が、国の代表チームを支えている。
「それぞれの年代、カテゴリーの多くの選手たちに、上へ進む、多くのチャンスがある国です。なので、希望を持つ選手が多く、競争も激しい。そういったことが良い状況を作り出していると思います」
6月1日、ドバイでのトランジットを経て、22時間かけて故郷に戻った。
帰国後はフルタイムでの活動はないけれど、近隣の学校などで若い世代の指導に携われたらいいですね、と話した。
プレーしていて楽しいラグビースタイルを、自国の若者たちに伝えてくれそうだ。異国の地でチームとともに成長する楽しさも。
人生の一部であるラグビーだけど、欠くことのできないものでもあった。