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◆ありがとうラグビー。
深く記憶に刻まれている2試合は、いずれも秩父宮ラグビー場が舞台。
幸せな楕円球人生だったと、自分でも思う。
今季、トップイーストリーグ(Aグループ)で開幕3連勝。東京ガスが好調に走っている。
ファンも嬉しい。いま、応援してくれる人の輪を、より大きくするチャンス。今シーズンから、地域貢献活動の担当となった小泉泰介の頬も緩む。
その小泉は2023年シーズンを最後に現役から退いた。入社して9年間プレーした。
昨夏、2人目の子宝を授かった。妻の負担も大きい。家族との時間も増やしたい自分もいるから、ブーツを脱ぐ決断をした。
東海大時代、東京ガスに入ってからも、絶対的なレギュラーだった時期はない。ラストシーズンも、6試合中5戦はベンチスタート。
しかし、どのシーズンも、常に出場メンバーに絡めた位置にいた。「幸運だったと思います」。
冒頭のように、忘れられない試合が2試合ある。
ひとつは大学2年時。全国大学選手権のセカンドステージで戦った明大戦だった。45-36と快勝した試合に、後半から出場した。
もう1試合は昨年、2023年12月9日の東京ガス×ヤクルトレビンズ。チームのシーズン最後の試合だった。
小泉は後半24分から、WTB稲吉渓太との入れ替えでピッチへ立った。
その試合には19-27と敗れた。
しかし、「最後」と決めていたシーズンのラストゲームに出られた。「開幕前から、その試合に出ることを目標にしていた」。
ラグビー人生の集大成を出そうと思っていた日に合わせ、コンディションも整え、ベンチ入りできた。
自分を褒めてやりたい。そして、大好きな仲間と最後まで戦えてよかった。
小4時、田園ラグビースクールに入った。中学はダッグス。東京高校に進学した。
HOだったポジションは高校でFLとなり、高校3年時にはSHへ。東海大でも9番のポジションを争った。
FW出身者として、ディフェンスは強み。「体の強さには自信がありました」。
WTBもできる。
よくタックルし、いろんな背番号でプレーできるから重宝された。
「ただ、それで満足してはいませんでした」
常に先発を狙っていた。ベンチスタートと決まれば気持ちを切り替え、仲間のプレーを見つめながら試合を読む。自分がピッチに出た時、どうプレーするのか考えた。
大学時代、プレー時間があまり長くない自分に声をかけてくれた。「仕事もラグビーもしたい」と、東京ガスへの入社を決めた。
望んだ生活ではあったものの両立は簡単ではない。しかし、「慣れたらやれました」とサラッと言う。
ラグビーをやってよかった。
「いま、ここにいるのも、ラグビーがあったからだと感謝しています。いろんな気持ちを発散できるスポーツだったし、仲間と気持ちを共有できました」
地域の子どもたちにも、楕円球に触れてほしい。魅力を伝えていきたい。
◆妥協なき人。描く未来へ。
東海大の後輩にあたる平尾充識(みつのり)も、小泉同様、2023年度シーズンを最後に現役引退を決めた。
東京ガスでは4季プレーした。
28歳と、まだ若い。しかし、2023年シーズンの最後に左膝の靭帯を痛め、新しくやりたいことも見つかったから決断した。
平尾も、もっとも記憶に残る試合を秩父宮ラグビー場での一戦とした。
東海大2年の時に翻る。同シーズン、チームは大学選手権決勝に勝ち上がり、帝京大学と戦った。
そのシーズン、平尾はレギュラーとしてWTBのポジションを得て活躍した。
頂上決戦にも背番号14を背負って先発。後半14分にアタアタ・モエアキオラと代わるまでピッチに立った。
最高のスタートを切った試合だった。
この日、東海大は14点を先取。スクラムで圧力をかけていただけに勝機をつかみとる気配が漂っていた。
しかし、最終的には26-33と敗れた。
平尾は、試合が終わった時に見たグラウンドでの光景を自分の目に焼き付けた。
うなだれる青いジャージーの反対側で帝京大が歓喜の瞬間を迎えていた。
「忘れられないシーンです」
大阪・履正社中でラグビーを始めた。早稲田摂陵高校で力を伸ばす。猛者揃いの東海大へ進学した。
強豪校ではないところから精鋭の集まる集団の中に入っても試合への出場機会を得られた理由を「負けず嫌いなので」と話す。
「いや、いちばんになりたい、という思いが強かったからかもしれません」
日本代表になりたいと思っていた。だから、周囲に力があるチームメートがいようが、負けるわけにはいかないと努力を重ねた。結果、実力を伸ばし、評価された。
ウエートトレーニングに熱心に取り組んでいた当時。3年時には178センチ、97キロという堂々たる肉体を作り上げていた。
そのシーズンもWTBで定位置を確保した。
2季連続でコンスタントに出番を得られた。普通なら同じスタイルで進化し、最上級生としてのシーズンを、より充実させようとするのかもしれない。
しかし平尾は、WTBとしてよりシャープに動きたいと考えた。
先輩が通っていたパーソナルトレーナーの元へ行き、自分の思いと、なりたい姿を伝えた。
3年生から4年生になるときのオフ、そしてリハビリも兼ねていた春シーズンを使い、新たなトレーニングと食事管理の指導を取り入れると、なんと17キロの体重減。鋼の意志で肉体改造をやり通した。
大学ラストシーズンは、結果的に自身が思っていたようなパフォーマンスを出せず、試合出場は限られるものとなった。
しかし後悔はない。チャレンジしない人生こそ嫌だ。
卒業後の進路を東京ガスとしたのは、最初に声をかけてもらったことを意気に感じたことと、信頼する先輩(村松佑一朗)が先に所属していたから決めた。
ラグビーと、ガス工事の工程管理、品質管理を担当する仕事に真摯に取り組んだ。
2年目こそ秋の公式戦に6試合出場したものの、他のシーズンはコロナ禍や怪我も重なり、思うような活躍はできなかった。
仕事100、ラグビー100の生活は望んだものだったが、繁忙期の規模が予想以上でグラウンドに出られない時期もあった。
「それは覚悟していたことなので」と言い訳にしない。そしてこの先も、「このチームには同じスタイルを貫いてほしい」と続ける。
「歴史あるチームでラグビーができたことは一生の宝物です」と、短くても濃かった4年に感謝する。
妥協なき人は、自分の思う道を突き進むエナジーを持ち続けるためには「努力を続けた先の姿を想像すること」と言う。
ラグビーからは離れるけれど、なりたい自分の未来図はどんどん明確になりつつある。
これまでと変わらず、生きたい道を走り続ける。